甘口辛口

伊藤整の娘マリ子(1)

2012/3/15(木) 午後 4:04
伊藤整の娘マリ子

7,8年前のことだった。BOOK OFFに立ち寄ったら、一冊100円の安売りコーナーに、私の目を引いた本があった。

   「帰らない日へ(伊藤マリ子)」

本を取り上げて調べてみたら、やはり著者は伊藤整の娘のマリ子だった。

私が伊藤マリ子という名前を覚えたのは、その時点からさかのぼること3、40年にもなろうかという高校教師時代のことなのである。当時、私は女子高校の図書館係をしていたから、図書館で定期購読している雑誌「婦人公論」をちょいちょいのぞき読みしていた。そしたら、伊藤マリ子が父親の思い出を書いている文章があったのだ。

それは透明感のある明晰な文章だった。その文章のなかで、伊藤整が躍如として生きて動いていた。それだけだったら、彼女の名前を長く記憶することにはならなかったろうが、「婦人公論」の別の号を見ていたら、伊藤マリ子が変に心にしみる身辺雑記を書いていたのである。

彼女は、小学校から大学まで一貫教育を行う学校に通っていた。富裕な家庭の子供ばかりが入っている設備の完備した私立の学校だった。彼女はその学校で小学校と中学校を終了し高校に入る段階になって、公立の高校(都立高校)へ移ってしまうのだ。伊藤マリ子は、こんな恵まれた学校に通い続けるのはよくないことだと考えて、あえて全室床下暖房の楽園のような私立校から脱出し、「普通の高校」に転入したのだった。

都立高校に移ってみると、設備は整っていないし、教室の窓は小さくて室内は暗く、すべてが薄汚れた感じだった。彼女は廊下の窓に寄りかかって外を眺めながら、取り返しのつかないことをしてしまったという後悔を、これは自分が選んだ道なのだという反省で押さえ込んでいた。そのあたりの情感豊かな文章を読んでいるうちに、彼女の名前が自然に頭の中に焼き付いたのだ。

私はBOOK OFFにあった伊藤マリ子の本を手に入れて家に戻ったが、結局、その本を読むことはなかった。その頃の私には、読みかけの本があり、それにかかり切りになっていたから、マリ子の本を読むのは後回しにしたのだ。そしたら、その本のことをすっかり忘れて、今日に至っていたのである。

先日、伊藤整の全集を読んでいたら、娘のマリ子のことを思い出した。伊藤整がコロンビア大学から招聘されたときに、妻と7歳になる末娘のマリ子を伴って渡米したことが書いてあったからだ。

「帰らない日へ」を探し出して調べてみると、本の中身は過半数が小学6年生の頃の日記になっていた。ほかに「婦人公論」などに寄稿した文章や、中学時代に読書感想文コンクールで総理大臣賞を獲得したときの読書感想文が含まれている。が、注意をひかれたのは、この本の編集作業にあたった兄・伊藤礼の前書きだった。伊藤マリ子は、女子大を卒業した翌年に死去しているので、この本は彼女の遺稿集といったかたちで兄の手によって出版されたのだった。

伊藤礼は、妹のマリ子が恵まれた環境に育ったことに触れて、こう書いている。

<(妹たちは親父に殴られたことはないが)おれたちは三日に一度か一日に三回殴られることによってなんとか成長することが出来た。おれたちは殴られない日が三日続くと危機熟すという不安にさいなまれたもので、この感じはそろそろ大地震があってもいい頃だと唱える地震学者にしか分らぬぐらい難しいことだが、しかし殴られたことはそれだけ親父との接触点が多かったというふうに理解することが出来ないわけで・・・・>

伊藤整には4人の子があり、上の二人は男、下の二人が女だった。上の二人は、父親が上昇期の坂を上りつつある頃に育ち、疳をたかぶらせている父親から殴られたり、階段から蹴落とされたりしている。ところが、下の妹たちが育つ頃には「伊藤整ブーム」が到来して家計も豊かになり、伊藤礼の言葉を借りれば一家は「御殿のような家」に住み、娘たちは師匠について日本舞踊やピアノを習うようになっていた。

二人の女の子の中でも、とりわけマリ子は目立っていて、器量は帝国ホテルの写真屋に目をつけられてその写真をウインドウに飾られるほどだったし、学校の成績もきょうだいの中では一番よかった。

性格も素直で優しく、誰からも愛されていた。その彼女が、自分自身に逆らうような行動に出るのだ。その最初は、私立学校を飛び出して、都立高校に転入したことであり、次は将来の進路として文筆業ではなく、画業の方を選んだことだった。再び、兄の礼の文章を引用する。

<マリ子は幼いときから本を読むことを身上としてきた。まるで本を食べて育ったような子供だった。それとともに、書くことも彼女は好きだった。彼女が小学生時代に創作に熱中していたことは、死後マリ子の日記を読み、また実際に二百五十枚の小説が出てきたことではじめて私たちは知ったのだが、それはそれとして、彼女は本当は文章の世界に生きる人間であるというのが私たち周囲の者の自然な結論だった。

・・・・しかし、あえてそれを始めから問題にせず、自己を表現する道として絵をえらばうとしたことにマリ子らしさがあった。マリ子はむしろ文章にたいしてこそ「堤防を切る勢でなだれこむ愛情」を持っていたのに、彼女がそれをえらばうとしなかったのは、父にたいする遠慮と、またもここでも「恵まれた」ものにたいする疑惑が複雑にからんで存在していたためのように見える>

伊藤マリ子が自身の恵まれた境遇に不信の目を向けていたことは、ほかにもあった。父の死後、マリ子のところに原稿依頼が増えてきたが、このことにも彼女は釈然としないものを感じていた。普通の市民がライターとして生きていくには多くの困難を乗り越えて行かなければならない。だが、彼女は父が有名作家であり、その父が亡くなったおかげで、労せずに原稿の依頼が舞い込んでくるのだ・・・・。

兄の礼は、マリ子が「空っぽの軽業にしかすぎないと思いながら仕方なしに依頼原稿を書いていた」といっている。彼女は自分につきまとってくる「恵まれたもの」を殺すことを自らの意志として生きていたから、マスコミから原稿を依頼されても素直に受け取れなかったのだ。

兄は、そういう妹の気持ちをすべて理解した上で、なくなった妹に次のような追悼の言葉をおくっている。

<マリ子は大学卒業の翌年昭和五十三年に死んだ。いったいなんのためにこの子はこの世に生まれてきたのだろうというのが私の嘆きだった。しかし私たちの家への短かい訪問者であった彼女は、生きている間私たちの喜びであり、はげましであり、良心でもあった。そのことを私たちは決して忘れることはないだろう>

(つづく)