甘口辛口

伊藤整の娘マリ子(2)

2012/3/19(月) 午後 1:25
伊藤整の娘マリ子(2)

マリ子が、「恵まれた条件」を与えられながら、それを拒否したのはなぜだろうか。自分が最初から有利な立場に立って生きることをいさぎよしとしない倫理観からだろうか。あるいは、恵まれた条件の下で、自分がスポイルされることを恐れたからだろうか。

いろいろ考えられるけれども、原因はやはり父親の生き方に引っかかるものを感じたからではないかと思われる。彼女は父を愛してはいたが、父親のすべてを受け入れていた訳ではなかった。

マリ子が「婦人公論」に載せた「父と娘に関する十二章」を読むと、父と母の人柄の違いが描かれている。

<父は小さくなった石けんを新しいのとくっつけて使いよくしたり、ストープは煙突付きでなければいけないと憤慨したり、停電の瞬間にロウソクを両手に書斎から降りてくるといった、細かく用心深いところがかなりあった>

父が几帳面で綿密だったのに対して、母の方はおおらかでノンビリしていた。

<実際父母の外出光景といえば、目に浮かぶのは、父がすでにコートと帽子を着け、靴をはき、無表情に大きくよく通る声で、
「お母さん。もう出ますよ」
 と叫ぷ。すると母は、
「はーい。仕度できましたよ。もう出ます」
 と言いながら今一度二階に駆け上がり、洗面所により、食堂にとって返し、バッグを捜し、廊下を小走りしながら、
「あら、私のショール。あらここね。ありがとう。まあいい子ね。じやヒデちゃんお願いしますね。すみません。お待たせしました」
 等々言うのだが、それが小川のせせらぎのようによく流れ、楽しく明るく、待たせた相手と衝突することなく・・・・・>

こうした対照的な性格の父母が、何事もなく暮らしていたら娘が父の行動に疑問を抱くことはなかった。だが、伊藤整の放蕩によって夫婦の間に風波が絶えないようになると、マリ子は父に反発しないではいられなくなった。

伊藤整の浮気相手は、銀座尾張町裏通りの酒場「スリー・シスターズ」のマダムをしている米子という女だった。彼女の生家は向島で待合いをしていたが、米子は名門の府立第一高女を出ていて、なかなかの文学通だった。そんなことから店には伊藤整を含む多くの作家や詩人が集まっていた。伊藤整がマダムと肉体関係を持つようになったのは、彼女と一緒にスキーに出かけたときだった。

夫の浮気を知って、温和だった伊藤整の妻も、人が変わったように荒れ始める。そして、遅く帰ってくる夫を責めて、つかみかかってくるようになった。伊藤整の方も、対抗上、暴力で相手を押さえ込む。伊藤整は、怯えた子供たちが、息をひそめて両親の争いを聞いていることが分かっていたが、どうしようもなかった。

伊藤が遅くに帰宅すると、妻が床について眠っていることもある。彼はほっとして、その枕元に座り、妻の額を撫でてやってから自分も寝につく。が、妻はいきなりとび起きて、今までどこを歩いていたかと、なじり始めるのだ。

その頃、日中戦争がはじまり、だんだん水商売が難しくなってきていた。「スリー・シスターズ」のバーテンや女たちも次々に辞めていって、客足が遠のきはじめた。すると、米子の伊藤整に対する執着が強くなり、彼女は伊藤の家に乗り込んでくる気配を示し始めた。それで彼は、女と手を切ることを真剣に考えるようになるのだ。

伊藤は結局友人の手を借りて、米子と別れることになるのだが、この情事で示された自己保身の姿勢は、彼の生涯に一貫しているのである。

彼は12人きょうだいの長男に生まれ、一家を経済面で支えて行く立場にあった。伊藤が中学校教員になった頃、父は事業に失敗して抵当に入っている家屋敷から追い出されそうになっていた。伊藤整は、そういう実家を助けるために毎月30円ずつ仕送りをし、小樽商工会議所に勤めている彼の弟も、実家に15円〜20円を送金していた。

そんな時期に、伊藤整は上京して文学的野心を果たすための資金を1300円も貯め込んでいたのだ。この貯金をすべて投げ出せば、父の窮地を救えたかもしれたかったが、彼は実家への援助を月30円に留めていたために、両親と弟妹たちはついに家を追われて借家住まいをしなければならなくなった。

自己保身という点では、彼は作家としても賢明に立ち回っていた。小樽高商で彼は小林多喜二の一年後輩だったし、学生時代の文学仲間にはマルクス主義の洗礼を受けて実践運動に乗り出して行くものもあったが、伊藤整はマルクスの理論を正しいと感じながら、ついに「赤」になることはなかったし、日中戦争がはじまると戦争を賛美することさえしている。

彼は、当時の自身の心境を戦後になって「鳴海仙吉もの」のなかで告白している。

<鳴海仙吉は英米派で自由主義者だ、と言って槍玉にあげられることが何度かあったが、彼は知らぬふりをして過ごした。彼は抒情詩人的な臆病さから、マルクシズムに自分を登録したことが無かったので、投獄と中世の宗教裁判のやうな転向宣誓の強要は免れた。だが仙吉は立場の不安を感じて国粋主義者の知人に個人的に接近し、詩人の任務は国家の隆興に寄与するところにあるといふ趣旨の愛国詩人論を書いたりした。そして彼は英米派として罵られるのを怖れ、召集を怖れ、空襲を怖れ、戦々恐々として数年を過ごした>

だから、彼はそういう自分を次のような言葉で自嘲的に描かなければならなかった。

<女にだらしなく、思想に臆病で、あやしげな語学によって西欧小説の物真似しかできない文士伊藤整、空腹に耐へかねて場末の裏町で野菜層を拾つてゐる乞食のやうな男、つまり「私」は小樽中の住人から白眼視され、嘲笑されていた>

しかし伊藤整は、臆病で小心な自身を内省することで、独自の文学理論を構築することに成功するのである。

生命は自由を求めているけれども、社会秩序はそれを押しつぶそうとする。文学は生命と秩序の葛藤から生まれ、この葛藤をどう処理するかの方法的な差異から、さまざまの文学上の流派が派生する。また、個人としてみれば、日本のように権力が自由を圧殺してきた社会では、人は仮面紳士として生きるか、逃亡奴隷として生きるか、二つに一つしかなかった・・・・。

伊藤整は自身の文学理論を「小説の方法」「小説の認識」などの著書にまとめる一方で、戯画化した自分に社会批評、人間批評を語らせる「鳴海仙吉の生活と意見」というような表現方法も開発している。これらは変幻自在で読んでいて面白くはあるけれども、一部の文学愛好者だけにしか通じない狭さや甘さがあった。

生命と秩序を対比させて、それぞれの本質を明らかにしようとしたら、視野をもう少し拡げて「世界」を見なければならない。私は彼の著作を全部読んでいる訳ではないが、伊藤整という作家は、永遠の文学青年であり、64歳で死ぬまで大人になれなかった人物ではないかと感じている。

これに反して娘のマリ子には、老年志向の気味があり、「父と娘に関する十二章」のなかに、「ほんの小さい頃から、私はよく四十も過ぎた女の人になりたいと思っていた」という言葉を書き込んでいる。このへんに父と娘の違いがあったかもしれない。