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佐多稲子の「裸足の娘」(2)

2012/4/1(日) 午後 2:43
佐多稲子の「裸足の娘」(2)

電子書籍化した「裸足の娘」を読了してから、平野謙の佐多稲子論を読んだ。そしたら、著者の稲子が、「裸足の娘」は自伝として読まれているが、それは読者の誤解で、あれにはフィクションが多く含まれていると語っているとあった。

この本が売り出されてベストセラーになったのは、稲子が相生を去ってから20年後のことだったから、相生には未だ関係者がたくさん残っていたはずである。だから、稲子の本によって迷惑を受けたものも少なくなかったと思われる。たとえば、稲子父娘と同じ布団で寝た「川瀬」などは、大いに困惑したに違いない。作品によれば、川瀬は、稲子の処女を奪ったことになっているからだ。

試みに、この処女喪失の一件について検証してみよう。

父が勤めている造船所が、祭日を利用して従業員を慰安するための松茸狩りをすることになった。従業員はいったん会社に集まって、それからまとまって会場の松茸山に赴くが、家族たちは、そうした従業員とは別行動で、思い思いに山に出かけることになっていた。

稲子は父を会社に送り出してから、新調の着物を着たり、髪を結い直したりして家を出たが、化粧に手間取ったために、彼女はひとりで山道を登らねばならなくなっていた。他の家族は皆もう山に向かって出発した後だったからだ。

暫く歩いていると、後ろから足音がした。その足音の主は、稲子に追いついてきて、「おお」と声を上げた。川瀬だった。

「僕は昨日、出張で神戸まで行っていたんだ。それで遅くなってね」

二人とも道順を知らなかったから、稲子は、川瀬と一緒に目的地を探すことになった。山はしいんと静まりかえって、どこに行けばいいのか見当がつかない。小笹をかさかさと踏んで見知らぬ斜面を進むうちに、川瀬は稲子の手をしっかりと握っていた。稲子は、本能的にその手を振りほどこうとしたが、川瀬は知らん顔をして彼女を引きずるように引っ張っていく。

やがて、川瀬は傾斜のゆるいところを探して腰を下ろした。稲子は相手から顔をそむけて立ったままでいた。これに続く文章は、こうなっている。

<「ここへお座り」
と、川瀬が優しい声で言った。
「ええ」
まだ、立ったままでいると、「どうしたの。ね、ここへきなさい」
それは、命令するようでもあり、頼むようでもあった。
私はそれに逆らうことは出来なかった。そっと坐ると、彼はまた、「こわいの?」と、言った。ちらりと見ると、川瀬の目は、泣く一歩手前のような、何だか哀願するような、気弱いまたたきをした。
「しばらく、こうしていよう」
川瀬はそう言って、私の身体を膝に抱いた。
私は私の身体のこまかく震えるのを、相手に気づかれるのが厭だったけれど、どうしても、震えはとまらなかった。
 (以下四行削除)
私には、何の感応もなかった。ただ私には抵抗するなど思いも及ばぬような失われた意志があるばかりだった。感覚的には嫌悪の戦慄が身内を走っていた。
彼はもう、私に言葉などかけなかった。(以下四行削除)>

(以下四行削除)とあるのは検閲によって文章の一部が削られたことを示している。だが、これだけでも、稲子が川瀬によって、どのような形で初体験をさせられたか推測できる。

稲子の記述に嘘や偽りがないことは、この先を読んで行けば更にハッキリする。

稲子は、亡くなった生母が十五歳の女学生だったときに出来た子供だった。そのとき父親もまだ十八歳の旧制中学の生徒だった。稲子がこのことを知ったのは、多分祖母の愚痴を聞いていたからだ。祖母は、そのとき自分がどんなに困らされたか、周囲の侮辱と非難にどれくらい堪えねばならなかったかを、稲子に話して聞かせたのだ。稲子は、その頃の母の写真を一枚持っている。黒の紋つきの着物に袴をはいて、県立女学校の印のあるバンドを締めた写真だった。母は、一重瞼の兎のような目をして、如何にも皮膚の柔かそうな、しずかな顔をしていた。この写真は、もう身籠っていることがそろそろ隠しおおせられなくなって、女学校をやめるという時に、記念に写したものだという。

母を妊娠させた父も、罰を受けなければならなかった。父の弟は早稲田大学に進んでいるが、彼は大学進学を諦めなければならなかったのだ。

考えてみれば、今の稲子は、亡き母が彼女を身ごもった時と同じ年齢なのである。
稲子は、亡き母と同じように、自分も妊娠したのではないかと恐れていた。にもかかわらず、彼女は、川瀬の前で無防備な自分をさらしてしまう。

川瀬は、出産間近な妻を実家に残して相生に赴任してきていた。その妻が出産を終えたので彼は、造船所の近くに家を借り、妻子をそこに呼び寄せていた。稲子の父親が娘を連れて川瀬の借家を訪問したことから、稲子は何時とはなく川瀬の妻と親しくなった。

ある日、友達を訪ねて街に出た稲子は、突然の雨にみまわれ、近くにあった川瀬の借家に駆け込んだ。すると、会社に行っているはずの川瀬が家にいて、川瀬の妻は留守だった。聞けば川瀬は軽い風邪をひいたために勤めを休み、川瀬の妻は風邪薬をもらうため医院に出かけているということだった。稲子は、勧められるままに、家に上がって川瀬の妻を待つことにした。

稲子はこれまで、あの頃よりも成熟してきた自分の身体を川瀬に見られたくないと思っていた。それなのに、今度は、そういう自分を川瀬に見せつけてやりたい欲望に駆られたのだ。(私はもうあの山で抱かれたときの私ではありませんよ)と、言ってやりたいような気持ちになったのである。

家の中に通された稲子は、布団の中に入った川瀬を横目に、机の上にあった講談雑誌を膝にとって眺め始めた。そういう時のひそやかな雰囲気が、どういうものを醸し出すかということを、稲子は感覚的に知っていた。それでも彼女は尚、そこにじっと坐っていた。稲子は、そのときの心情についてく、こう書くのである。

<妖しい期待、というようなものに私はとらわれ出していた。相手が川瀬だ、ということが私を大胆にさせていた。川瀬がひとりだと知った時から、すでに私の心はもうそのことだけに傾いていたものだったかも知れない。
機会の陥穿というものは、思いがけないほどの強いカを持っているものなのであろう。私は、目前の雰囲気の中に、もっと、もっと、深入りしたい欲望をふつふつと感じた。
川瀬の奥さんが帰って来たら、ということは私の震える胸にもあったけれど、それに対する罪悪の意識などは何にも働きはしなかった。
何かを待っている。その戦くような感覚だけになった。
私はそういうものを全部、川瀬の前にさらけ出していた。私は自分の、ごくっ、と唾をのみ込む音を聞いた。その音は川瀬にも聞えるであろう、と思った。聞えても構わない、と思うのだった。私の足の平はじっとりと汗ばんでいた。
私は当然川瀬もまた、そういう私を受け入れて呉れるものと思っていた(「裸足の娘」)>。
(つづく)