甘口辛口

南京陥落の頃

2012/5/28(月) 午後 8:51
南京陥落の頃

NHK・Eテレで放映される「さかのぼり日本史」という番組を録画しておいて、暇があるときに再生して見ている。先日、そのシリーズの一つ「日中戦争、熱狂の代償」というのを見ていたら、いろいろなことが思い出された。その番組が取り上げている日中戦争・南京陥落の年(1937年)は、私にとってもちょっとした転機になった年だったのだ。

私はその年、小学校の6年生だった。松本市で5年間を過ごした私は、小学校教員をしていた父親が転勤したために、この年に松本市を引き払って伊那谷の小学校に転校していたのである。

松本市にいた5年間は、父の勤務する師範学校の付属小学校に通っていた。「附属小学校」は、師範学校の学生たちが教育実習をする時のために設けられた併設学校だから、学級の生徒数も少なく、比較的富裕な家庭の子供が多かった。

だが、村の学校に転校してみると、教室の中には50人の生徒がひしめいていて、ワイワイ・ガヤガヤやっている。一番、びっくりしたのは、そのなかに着物姿の女生徒が何人か混じっていることだった。附属小学校で一緒だった女生徒は、みんな洋服姿で、髪はオカッパにしていたのに、ここでは彼女らは寝間着を思わせる丈の短い着物を着て、髪は頭のうしろで二つに分けてゴムで縛っているのだ。

私は、松本の学校ではクラスのボスになっていたが、村の小学校にはこちらより腕っ節の強そうな生徒が何人もいる。当分は、おとなしくしているしかなかった。だが、私にはガキ大将だった頃のイバリ癖が残っていて、自分の方から低姿勢になって級友の機嫌を取るようなことが出来ない。それで、あいつは生意気なやつだということになったらしく、クラスの生徒は誰も私に声をかけてくれない。

そんななかで、私に話しかけてくれたのは、クラス内の序列が最下位の「梅さ」と呼ばれているう生徒だった。彼は病気持ちだったために、学業が遅れ、平仮名もろくに書けないような「劣等生」だった。

「おめえ、オレと遊べや」

いつも仲間はずれになっている梅さは、小学6年生がどんな遊びをするか知らない筈だった。その彼が私に声をかけて、一緒に遊ぼうという。彼は、いったい、何をして遊ぶつもりなのだろうか。私が無言で相手の顔を眺めていると、梅さは間が悪そうな表情になって、その場を離れていった。

それでも、同じ教室で過ごしていれば、座席の近い生徒と親しく口をきくようになる。私の前に座っているのは、着物を着て学校に通ってくる女生徒の一人でチヨ子という名前だったが、転校して暫くすると、チヨ子の方から私に話しかけてくるようになった。私も彼女に惹かれていた。彼女は、TVドラマ「おしん」の子供時代によく似た身なりと容貌を持っていて、飾らない素朴な人柄がよかったのである。

チヨ子は授業中に、時々、私の方を振り向いて、話しかけてくる。ある日のこと、作文の時間だったが、例によって後ろを振り向いた彼女は、私が書いている作文にちらっと目をやり、あれっというような顔をした。私には相手が何故そんな顔をしたのか理由が分からなかった。

元の姿勢に戻ったチヨ子に、隣の女生徒が、「どうかしたの?」というように彼女の方に顔を寄せた。二人はこちらに背中を向け、何やら囁き交わしはじめた。その言葉の切れ端が私の耳に入ってきた。

「自分のことを、ボクって書いているよ」

ああ、そうかと思った。村の学校では、作文を書くとき、自分のことを「私」と書くのだ。村の生徒からすると、「僕」などと書くのは、街育ちのハイカラな子供のすることなのである。私は、この時、自分がクラスから浮いている理由の一つは、級友からキザな気取り屋と見られているからだと悟ったのである。

──その頃、日中戦争は終幕に近づきつつあるように見えた。

中国北部で始まった日中間の戦闘は上海に飛び火し、日本軍は瞬く間に上海を制圧していた。そして、「皇軍」はその余勢を駆って、首都の南京を目指して進撃中だった。日本人の常識からすれば、首都を占領されれば敵は降伏し、戦争は日本の勝利で終わるはずだった。

軍部も同じような考えから、南京攻略を急ぎ、揚子江にそって「快進撃」を続けていた。戦史によれば、日本軍は兵站線が整うのを待つことなく、食料などを民家から略奪して先を急いだという。現地の住民は、日本軍は皇軍ではなくて「蝗軍(イナゴのように米を食い荒らす軍隊)」だといって憎み、農民の姿に化けた国民党軍と共にゲリラ戦を展開したから、日本軍の被害は大きくなった。南京占領に際して日本兵が中国人を大量虐殺した背景には、「便衣隊(民間服を着た軍隊)」によって多くの戦友を失った日本兵による復讐感情があったといわれている。

南京が陥落したのは、12月13日のことだった。国民は歓呼の声を上げ、全国至る所で昼間は旗行列、夜は提灯行列が催された。私の住んでいる村でも、祝賀の日には全村あげて行列に参加している。

村には男性の組織として在郷軍人会や壮年団・青年団があり、女性の組織には国防婦人会があった。それらの組織はこぞって行列に参加したし、役場を始め、村内にある会社や工場の従業員も仕事を休んで行列に加わり、学校関係では小学校の生徒まで大人に混じって旗を振って歩いた。段丘の上から眺めると、それは異様な光景だった。人の列が、坂道を上ったり下りたりしながら遠い山裾まで、延々と続いているのである。

祝賀行列の次の日に学校に行くと、受け持ちの先生から、昨日のことを作文に書くように命じられた。私は自分のことを「私」と表現しながら、かなり長い作文を書いた。小学生なりに興に乗って、初冬の陽の下で何処までも続く旗行列の壮観なさまを書いたのだ。

すると、翌日、受け持ちの先生が意外な行動に出たのである。

「昨日、みんなが書いた作文の中にいいのがあったから、これを書き写すように」

といって、私の書いた作文をそのまま黒板にチョークで書き始めたのだ。生徒たちは言われたとおりに板書された作文を写して行く。先生が無言で黒板の端から端まで作文の文章で埋めて行けば、生徒も黙って帳面にそれを写している。沈黙の支配する教室の中で、私は身の置き所がないような気がしていた。

後から考えてみると、担任の教師は転校生の私が皆からいじめられて孤立していると考えていたらしいのだ。「父兄会(PTAのこと)」に参加した母も、担任の先生からそれらしいことを言われたといっていた。先生は、誤解していたのである。私はガキ大将でいるよりは、アウトサイダーでいる方が楽だと知って、自分からおとなしくしていたのだ。

だが、先生はクラスから浮いている私を力づけ、ほかの生徒にも転校生の私のことを少しでも知らせるために、担任教師としての善意から、作文を板書するという挙に出たのだった。

「さかのぼり日本史」によると、中国駐在のドイツ大使オスカー・トラウトマンは、日本が南京攻略戦に苦労していた頃、日本と中国の間を仲介して戦争を終わらせようと努力している。だが、日本側があまりにも居丈高な態度で交渉に臨んだために和平交渉は失敗に終わった。

その後で近衛首相は、「国民党政府を相手にせず」という声明を発して自ら中国との和平交渉を打ち切ってしまった。そのため、日中戦争は敗戦まで続くことになる。あの頃の日本は、運命を決する重大な岐路に立っていたのである。そして私も群れの中に留まるか、群れから離れて一人になるかの転機に立っていたのであった。