甘口辛口

悲劇から喜劇へ

2012/7/11(水) 午前 10:48
悲劇から喜劇へ

森鴎外を読んでいたら、「私は生まれて来ない方がよかった」と述懐する文章にぶつかった。この言葉は、こちらの心の深いところまで沈み込んで、(ああ、この人は生きることを業苦と感じている人だったのだな)と思った。私が30になった頃の話である。

全く、この世は恐ろしいところなのだ。生あるものは、他の生命をむさぼり食らうことなしには生きて行けないのだから。

小学生2年か3年生頃だったが、通学している学校の近くに養鶏業を大規模に営んでいる県内でも有名な「K養鶏場」があった。普段は、養鶏場の内部を自由に歩き回ることなど出来なかったのだが、何かの伝手(つて)があって、数人の同級生と一緒に場内を見学することが出来た。

鶏舎の内部や、卵を孵化させる特別な区画を見学してから、帰りがけに養鶏場の片隅にある豚舎を覗いてみた。そして、そこで恐るべき光景を目にしたのである。

養鶏場の従業員が、平たい笊のようなものにヒヨコをいっぱい載せて運んできて、豚舎のなかにぶちまけたのである。すると、巨大な体をした豚が逃げまわるヒヨコを片っ端から食べはじめたのだ。養鶏場にとっては、オスのヒヨコは不要だから、それを処理する方法としてヒヨコを豚に食わせていたのである。そして、生きているヒヨコを食らい肥った豚も、やがては人間に食われてしまう。動物たちの相互殺戮によって支えられているこの恐るべき世界──

弱肉強食の世界は、動物の世界だけにあるのではなかった。中学生の頃、学校林の手入れにかり出されたが、そのなかでも激しい生存競争が進行していた。

見事に成長した林の中に、ところどころ、物干し竿ほどの高さまで成長し、そこで立ち枯れになっている木を見かけたのだ。成長の遅い苗木は、まわりの樹木群に陽光を奪われて日陰の中で生きることになり、光合成が不可能になって枯死するのである。

人間社会には、生物同士の相互殺戮のほかに、国家間の戦争による死や権力による個人の虐殺という現象もある。明治以後の日本は、絶え間なく戦争を繰り返して、多くの国民を死に追いやり、国内では、官憲が自由民権運動から社会主義運動に至るまで、解放を求める闘士たちを追いつめ、「大逆事件」のようなフレームアップによって多くの運動家を処刑してきた。

──それよりも、もっと深刻な問題は生物の生命が有限であることだ。

人は、根源的な欲求として生き続けることを望みながら、例外なく死んで行く。人間の生命が限りあるものなら、甘んじて死んで行くべきなのに、人は自身の死が不可避であることを知りつつも、死を忌み嫌って、出来れば永遠に生きたいと願うのだ。人間は、やがて到来する死を意識し、日常的に怯え続けなければならない。

こう考えてくると、人間は悲劇的な存在として生きることを宿命づけられているように見える。

悲劇的な人間の運命を、せめて心理面だけでも喜劇に見立て、人の一生を俯瞰的に眺めることはできないものだろうか。人は泣きながら生まれてきて、泣きながら死んでいくといわれるが、生涯の終わりくらいは笑って死んで行きたいではないか。

人間の生涯を一場の喜劇と見るためには、「笑い」の本質について考える必要がある。笑いを社会機能の一種としてとらえるベルクソンは、こういっている。

「笑いを誘うのは、ひとりの人間としての注意深い柔軟性と、生き生きした屈伸性があってほしいところに、いわば機械のぎごちなさが見られるからだ(白水社判「ベルグソン全集」3巻目)」

つまり、こういうことである。人がチャップリンのように機械的な歩き方をしたり、壇上の弁士が、すっかり上がってしまってテープレコーダーのように同じ言葉を繰り返したりすると、人々は笑い出す。人々が笑うのは、相手が人間らしい柔軟性を失って、非人間的な、機械のような言動を示すときなのだ。

人々は笑うことによって相手に軽い懲罰を加えている。私たちは相手を笑うことによって、相手にもっとリラックスして行動するように促している。ベルクソンが「笑い」を社会機能としてとらえる理由は、そのなかに社会的な矯正機能が含まれているためだ。

懲罰的機能としての笑いのほかに、相手に共感したときに生まれる好意的な笑いもあるから、笑いを矯正作用としてのみ捕らえるのは間違っているかもしれない。

相手に共感して好意的に笑うケースを考えてみよう。人々が硬直して気まずい空気が支配的になったとき、誰かが正直な言葉を一言でも口にすれば、その場の空気は一変し、人々は緊張から解き放たれて笑いだす。
これを定式化していえば、硬化した非人間的な現実を、リラックスした目で眺めるときに懲罰的な、あるいは共感的な笑いが生まれるということになる。笑いには、社会の側から個人を懲罰するものもあるし、個人の側から社会を笑殺するものもある。私たちが、柔軟な目で自他の非人間的なありようを眺めるときに、私たちは意識しないで人生を喜劇として見ているのである。

私は、ここに「生命規範」という概念を提出したい。人は生命の働きに従っている限り、安らかに生きることが出来るが、生命本来の働きから逸脱し、「生命規範」に逆らって行動すれば、当人の気づかぬまま喜劇を演じる人間になっている。

これは、他人事ではないのだ。顧みれば、私たちは日々「生命規範」から逸脱して「余食贅行」をすることで劇中の人になり、三文喜劇を上演しているのである(「余食贅行」とは老子の言葉で、すでに足りているのに必要以上に食べたり、行動したりすること)。

(つづく)