甘口辛口

井上ひさしの戦術(1)

2012/8/1(水) 午後 7:52
井上ひさしの戦術

私は高校教員という、ある点で暇に恵まれた職業についていたおかげで、一応本を読む時間には恵まれていた。だから、現代日本文学についても多少の知識を持っていたが、その知識には盲点が多く、例えば北杜夫や井上ひさしの作品をほとんど読んでいないなかった。

それで、女子大に進んだ頭脳明晰な女生徒が、「今、私の信じることが出来るのは、モッキントット師だけです」と書いた手紙をくれたとき、私は首をひねってしまったのだ。井上ひさしについては門外漢だったけれども、モッキントット師が井上作品に登場する人物であって、実在の人物ではないことくらいは承知していたからだ。

とにかく、モッキントット師が登場する井上作品を読んでみないことには話にならなかった。ということで、問題の本を探して、読んでみたのである。

今となっては、その作品がどんな内容だったかすっかり忘れてしまったけれども、モッキントット師がどんな人物なのかという点は、ハッキリ記憶に残っている。彼は養護施設で働いている善意に溢れたカトリック修道僧なのだが、自意識過剰な男だったから、何をするにもモタモタする。特に、善を為そうとすると、まるで恥ずかしいことでもするように、びびってしまう男だったのだ。

モッキントット師は、自分の弱さを隠そうとする智恵も才覚もなかったから、卑小な自分を生地のままで人前にさらすことになる。

いかに作品の中の登場人物に過ぎないといっても、こんなお人好しで、馬鹿馬鹿しいほど正直で、裏も表も見通しな男を、私は見たことがなかったのだ。女子大生が、小利口に生きている世俗の大人たちと引き比べて、「信頼できるのはモッキントット師だけだ」と断言するのも、無理がなかった。

井上ひさしは、養護施設にいた頃にモッキントット師を知ったと書いているから、彼は親に死別した孤児なのだろうかなどと見当はずれなことを考えているうちに、彼がスキャンダルに巻き込まれマスコミに大きく取り上げられることになったのである。

私は以前に、このスキャンダルに関連した文章を書いたことがあるので、それをここに転記して見る。

<西館好子(井上ひさしの前妻)は、夫の作家活動を支える優秀なプロデューサーであり、マネージャーだった。彼女は男勝りの有能な女だったから、夫を督励して原稿を書かせるだけでなく、夫と協力して「こまつ座」という劇団を立ち上げたときには、座長のポストについている。彼女は劇団を思うままに切り回しているうちに、舞台監督の男性と恋仲になり、二人で劇団員の相当数を引き連れて、独立してしまうのだ。

ワイドショウを通して、この騒動を眺めていた視聴者は、西館好子の気ままな行動に義憤のようなものを感じたのである。ワイドショウを見ていて、私が不思議に思ったのは、井上も西館好子も、そして二人をめぐる周辺の人々も、それぞれ取材記者の求めに応じてカメラの前で意見を述べているのに、肝心の西館の愛人だけは一度もテレビに顔を出さなかったことだ。これは、西館が男をかばって、愛人の近くに取材の記者たちを寄せ付けなかったからに違いなかった。彼女は愛する男のためなら、何でもする女なのである。

離婚が成立して、かなり時間がたったころ、何かの雑誌に、西館好子が井上作品の上演許可を前夫に求めているという記事が載っていた。これも虫のいい話だった。前夫を裏切ってこまつ座をめちゃめちゃにしておきながら、彼女は自身の劇団が営業不振に陥ったからといって、前夫の作品を使わせろと要求しているのである>。

私は、このスキャンダルに並々ならぬ興味を感じ、密かに井上ひさしを声援していたのだから、これを機会に彼の作品をまとめて読んでみればよかったのだ。しかし、私は当時大きな話題になっていた、井上作品の「吉里吉里人」さえ読むことなく過ぎていたのである。

どうやら井上作品にも、井上ひさしの人柄にも、こちらを反撥させるようなものがあったが、私はそれについて考えることを避けていたらしいのだ。

暫くすると、いったん収まったと思われていたスキャンダル報道の残り火が再び燃え上がって、マスコミの注意を引くようになった。これについて私は、次のような記事をホームページに載せている。

<井上ひさしは西館と離婚後、共産党幹部米原昶の娘の米原ユリと結婚し、幸福な家庭を築いていたらしかった。三女の麻矢も前妻も、これに怒りを感じて、何とか井上夫妻にケチを付けようとしている。二人が揃って井上ひさし攻撃の本を出版し、その中で二人が井上ひさしは天皇制否定論者だと記しているのも、そうすれば保守的な階層を怒らせ、彼の評判を落とすことができると信じているからだ。

特に、西館は、井上ひさしへの憎悪をむき出しにして、彼の家庭内暴力を暴き、自分が受けた被害を次のように数え上げているという。

「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て…」

彼女は著書で前夫の暴力沙汰を暴くだけでなく、家庭内暴力をテーマにした講演会を全国各地で開いて回っている。

もし、別れる前に井上が西館に暴力をふるったとしたら、それは妻の浮気に嫉妬したからだ。どんなに謹厳実直な男でも、信頼していた妻に浮気をされたら、それを知った瞬間にかっとなって、常軌を逸した行動にでるものなのである。

娘と前妻から集中攻撃を受けながら、井上が反論することなく沈黙を守り続けているのは見上げたものである>

(つづく)