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井上ひさしの戦術(5)

2012/8/17(金) 午前 8:25
井上ひさしの戦術(5)


日常接触する人々との友好関係をあれほど重視していた井上ひさしが、原稿の締め切りを守らず、編集者や劇団関係者を困らせ続けたのは何故だろうか。彼は、雑誌社や劇団から舞い込んでくる原稿・台本の注文を、自分の能力の範囲内で受け入れていたら問題はなかったのである。ところが、ひさしは、原稿の注文があれば、何でも引き受け、その結果、依頼した相手を困らせ、自分自身も塗炭の苦しみをなめることになったのである。

ひさしが、際限もなく注文を受け入れた理由は、今となっては想像するしかない。考えられるのは、彼は子供の頃、母が寸暇を惜しんで働き続けるのを見て、人間というものは、あんな風に稼ぎ続けなければならないものなのだと肝に銘じたためかもしれない。

それで、彼は手に余る注文を引き受け、歯を食いしばって原稿を書いているうちに、「生きることは、書くこと」という信念を身につけたのだ。

ひさしが約束を守らないために、原稿催促の矢面に立されるのは、妻の好子だった。彼女は催促の電話を受けるたびに相手に謝罪し、原稿が出来上がるとすぐさまタクシーに飛び乗って注文主の雑誌社に届けていたが、それも間に合わなくなって、編集者が直接ひさしの家に泊まり込んで、原稿の仕上がりを待つようになったのだった。

好子は、原稿遅延のため、いかに多くの関係者が迷惑しているかを夫に訴え続けた。が、ひさしは一向に動じないで、平然と、こんなふうに言い切るのだ。

「どんなに迷惑をかけようと、素晴らしい作品を書けばいいんだ」

ひさしと好子は、性格の違いもあって、普段から衝突が絶えなかった。娘の麻矢は、井上ひさし家の内情を記した「激突家族」という著書の冒頭に、こう書いている。

<父と母(井上ひさし・好子)は、いつも戦っているように見えた。それは日常のどんな些細なこと、たとえば昼ご飯を何にするか″とか、『刑事コロンボ』をどの部屋のテレビでどういう状態で見るか″ということに対しても、真剣に彼らは戦う。それは、父と母が喧嘩をしているという意味ではなく、真面目に彼らは考えるのだ。決して「まあ、適当なところで」とか「どこだっていいじゃないか」などとは言わない。
・・・・父は「書く」ことで、母は、父の作品を武器にして、感情のままに生きていた。若かった彼らは、私を含む三人の娘を作ったけれど、本当は子供など持ってはいけないエネルギーの持ち主だったように思う>

娘の麻矢は、両親の激しいというよりは、むしろ猛々しいといったらいいような性格を頭に置いて、夫婦は子供などを作るべきではなかったといっている。だが、彼女が本当にいいたかったのは、二人は結婚などをすべきではなかったということなのだ。

夫婦の間の対立は、原稿の遅延問題をめぐって、いよいよ深くなった。好子は、優れた作品を書きさえすれば、他人に迷惑をかけたっていいのだと言い張る夫の傲慢を憎むようになった。

ひさしと好子は、終わりのない喧嘩を繰り返しながらも、原稿の遅延問題を解決する方法の一つとして「こまつ座」を発足させることを考え始める。他の劇団のための台本が遅れて公演延期や公演中止にでもなれば、大変な損害を生じることを学んだ夫婦は、自前の劇団を持てば、原稿が遅れても何とでもなるのではないかと考えはじめたのだ。

ひさし個人としても、行動的で、わがままで、多情な妻を落ち着かせるためには、劇団のプロデュサーという仕事を与えるのが一番いいと考えるようになっていた。彼が妻の浮気を警戒するようになったのには、こんな事件があった。

西武劇場事件が起きる少し前のことだった。缶詰先のホテルから帰宅したひさしは、好子が夫婦の共通の友人である男の膝にすがって泣いている現場を見てしまった。この時には、「血が逆流」したひさしは妻を殴り、友人を罵ってひとしきり暴れ回ったのだが、その後、好子が自殺をくわだてたことなどがあって、ひさしも反省するところがあったのである。

「こまつ座」の座長として劇団を運営の実務を担当することになった好子は、家にいるよりも、劇団で過ごす方が楽しくなった。そして、いくらも時間がたたないうちに舞台監督の西館を愛しはじめたのだ。西館は、父は軍人、母は教師という物堅い家庭で育った無口な男だったが、離婚歴があった。

ひさしは、妻が西館を恋していることに気づいたけれども、浮気性の妻のことだからとハラの中ではたかをくくっていた。だが、妻が離婚届の用紙を突きつけて離婚を要求するに至って、愕然として態度を改め、「君が不幸になるのを見たくないから」と拒否した。

好子は、「いやだわ」と笑いながら言った、「だって、もうあなたを好きじゃないのに」

その日、彼女は、ひさしの児を堕してきたばかりだった。そのことをひさしも知っていた。彼女はこれまでに、何人もの胎児を堕して来たが、その都度、ひさしは「ご苦労様」というだけで、好子をいたわることは絶えてなかった。

ひさしは、その日も、好子を張り飛ばしたが、好子は屈しなかった。

「どんなに強い力で押し倒されても、もう、わたしの身体は開かないわよ」とひさしに宣言し、それから、「心は、もっとね」と、付け加えた。

こんな一幕があった後も、ひさしが離婚届に署名しなかったために、夫婦は同じ家に同居し続けた。時々、ひさしは、西館の人物について、こんなふうに批評した。

「君が好きだという西館君ね、だまっているのがいいというけど、無口な人間に有能なのはいませんよ。要は、何も考えてなどいないんですよ」

と思うと、ひさしは好子を狂ったように滅多打ちにすることがあった。それも同居している妻の両親の面前で。

ひさしが妻への怒りを爆発させたのには、妻が彼の建てた「豪邸」に自分の両親をよびよせて住まわせ、父親に「こまつ座」の資金調達の問題やら自宅の家計を委ねたからだった。彼は娘と銀行に出かけて融資について係と折衝し、ひさしの通帳や保険証を預かって、経済面で一家の全権を握っていた。それを見て、ひさしは好子一家から疎外されたような気がしていたのだ。

ひさしと義父は、天皇制論議でも対立していた。ひさしが天皇制を否定するのに対して、好子の父は天皇を敬愛しており、好子もまた、「日本人で世界に通用するのは天皇だけじゃないの」と父の意見に賛成していた。

1986年、ひさし夫妻の離婚は、好子が家を飛び出して西館のもとに走ったことで成立した。

こうなった原因は、好子の著書「修羅の棲む家」を読むと、彼女の人間的未熟によることが大きいと言わなければならないだろう。彼女は、よく言えば庶民的だったが、教養のない、親から甘やかされた人間だった。彼女は美空ひばりが好きで、憂さ晴らしのために風呂場で流行歌や演歌の替え歌を大声で歌う癖があり、自ら語っているように、苦境に陥ると居直って、ふだんよりよく食べ、よく眠るという、したたかなところを隠し持っていた。

ひさしは、好子を、「にわとりめ」と呼んでいた。三歩あるけば、何でも忘れてしまう女だというのである。愛人の西館も、「あなたは何も理解していないくせに、何かを求め、何かを追求しすぎる」と苦言を呈している。

井上家の長女の都は、母が西館のもとに走ったとき、西館の母親のところに駆けつけて、「母を返して下さい」と両手をついて懇願し、「母は夢中になると見境がないのです。どうか、西館に手を引くようにいってください」と言っている。

(つづく)