甘口辛口

求道者のタイプ(1)

2012/9/1(土) 午前 5:50
求道者のタイプ

先日、Eテレビを見ていたら、教養番組でフランクルの著書「夜と霧」を取り上げていた。昭和30年代の前半に、「夜と霧」をはじめとするフランクルの著書がよく読まれた時期があり、私も当時、評判を聞いて彼の著書二冊を古本屋から買ってきて読んだことがあった。

フランクルはウイーンに生まれ、大学で精神医学を講じている学者だったが、ナチスがウイーンに進駐してくると、ユダヤ人であるという理由で、彼は一家全員と共にアウシュヴィッツに送られる。そして彼をのぞく両親・妻子のすべてが、そこで非業の最期を遂げてしまうのだ。辛くも生き延びたフランクルは、戦後になって収容所での悲惨な体験とこれに関する考察を著書にまとめて発表し、世界各国から注目されるようになった。日本でも「夜と霧」「死と愛」の2冊がベストセラーになったのである。

Eテレビを見ていて明らかになったのは、私がこの二冊の著書の内容をすっかり忘れてしまっていることだった。
それで、家の中のあちこちを探して「夜と霧」「死と愛」を引っ張り出して点検してみた。すると、「夜と霧」には最後のページまで私自身が傍線が引いた跡があり、「死と愛」も読み残した部分が四分の一ほどあるものの、とにかくその大半に目を通していることが判明した。「死と愛」に読み残した部分があることは、「しおり」の代わりに挟んでおいた、マッチの軸木の位置から分かったのである。

「死と愛」を点検していて面白かったのは、この本の前の所有者が前半の「死」に関する部分を熟読玩味しているのに、後半の「愛」に関する部分を読んでいないらしいことだった。このことは、前半部分の至る所に傍線が引いているのに反し、後半のページには傍線が全くない点から推定されるのである。

前の所有者は、最初読んだ時に注意を引かれた箇所に、普通の鉛筆で傍線を引いている。二回目に読んだときには、赤鉛筆で傍線を引き、三回目(?)になると重要な語句や短文を赤鉛筆で塗りつぶしたり、カギ括弧に入れたりしている。だから、重要な箇所には、鉛筆の傍線と色鉛筆の傍線、それにカギ括弧が重複して書き込まれているのだった。

私は幾重にも引かれた傍線を眺めながら、自分が傍線を引くとしたら、やはり同じ箇所に引くだろうなと思った。つまり、私はこの本の前の所有者と感受性や考え方が似ていたのである。「彼(または彼女)」は、「愛」の章に移ると、とたんに興味を失い、その失望を物語るかのようにこの本を古本屋に売り払っている。私も何とか努力して「愛」の章を読み続けたが、やはり完讀出来なかったのだ。

フランクルが「死」の章で強調しているのは、こういうことなのである。

人が生存する意味や目的を明らかにしようとするとき、その意欲・動力を自己の内部に求めてはならない。人は自分のために人生の意味や目的を求めるのではなく、それ以前に自分が外の世界から何を求められているか知らなければならない──。

人間がいかに生きるかは、個人が勝手に決めていいような問題ではない。個人がいかに生きるかは、協同社会が各人に何を求めているかによって決定される問題なのだ。人間は、この世に一度しか生まれてこないし(一回性)、寿命には限りがある(時間性)、そして人はいかなる資質を持って、何処に生まれるか選ぶことも出来ない(運命性)。こうした一回性、時間性、運命性の制約を受けるために、各人に課せられる責任と使命は、人毎に違ってくるのだ。

私たちが、人生から何を期待するかということより、人生が私たちに何を期待しているかを知って生き続けるなら、その者が死を恐れることはない。死の恐怖は、自分が本来果たすべき使命をなおざりにしてきたときに感じるものだからだ。

フランクルは、人が創造価値、体験価値、態度価値の三つをそれぞれのやり方で実現するときに、各人が社会から期待されている使命を果たしたことになるという。私は、その昔、フランクルのこの考えに共感していたはずだったが、今では彼のことをすっかり忘れてしまっている。

何故だろうか。

その理由に思い至ったのも、やはり、Eテレビの別の番組を見ていたときだった。

(つづく)