甘口辛口

求道者のタイプ(4)

2012/9/13(木) 午前 9:43
求道者のタイプ(4)

20代から30代にかけて、研究対象として読んでいたのは、安藤昌益と中江兆民であり、純粋な興味から読んでいたのは中野重治や大岡昇平などだった。あの頃の私は、意志的でストイックな思想家や作家を好んで読んでいたのである。

それが30代の半ばになると、好みが変わって来たのだ。

例えば、トルストイの「戦争と平和」についていえば、20代の前半、初めてこの作品を読んだ時には、作中人物のアンドレイ公爵に惹かれていたのに、30代になると、トルストイはアンドレイ公爵よりもピエールを描こうとしたのではないか、作者は、ピエールを描くために、あの長大な作品を書いたのではないかと考えるようになったのである。

こうした変化を加速させたのが、「老子」だった。

老子は、「人間には内外両面から、縛りがかけられている」と見ていた。孔子は「生まれたままでは禽獣と同じで、人は<礼>を学んで始めて人になるのだ」と強調していたが、老子は、その「礼」や学問こそ個人の自由を制約する縛りに他ならないという。老子は、ズバリと言ってのけるのだ、「絶学無憂」(学を絶てば、憂い無し)と。

人は生まれながらに、明知を身につけている。学んで身につける後天的な智恵は、この先天的な明知を覆い隠す障害物になるのである。確かに、生得の知や生存能力は完全無欠とはいえず、個人が努力して補って行かねばならない空白部分があることも事実だ。だからといって、頑張ってその空白を全部埋めて完璧な存在になったら、後は死ぬのを待つしかなくなる。完成点は死点なのである。

生命が活動を続けるのは、内に不完全な部分、欠陥部分を残しているためなのだ。だから、長生きするには、完璧をめざさないで、不完全な部分、幼弱な部分を残して生きることが肝要になる。こういう生命の秘儀を知ることが、真に知るということなのである。だから、老子は、「知るものは言わず、言うものは知らず」という。

良寛は、社会が個人に科する縛りも、個人が自分自身に科する縛りも解き放って、後半生を自由人として生きた。良寛にはこんな逸話がある。

良寛が出家した後で、名主の職を嗣いだのは弟の由之だった。その由之の息子の馬之助が放蕩者で手に負えなかったので、良寛は弟に頼まれて馬之助を説諭するために弟宅を訪れたことがある。馬之助は何時説教が始まるかとびくびくしていたが、良寛は何も言わない。やがて、良寛が帰ることになったので、馬之助が土間にかがんで良寛の草鞋を結んでやっていると、暖かなものが上から落ちてきた。見上げると、良寛は馬之助を見下ろしながら涙を流していた。良寛伝説によると、以後、馬之助は立ち直って立派な名主になったとある。

良寛といえば、必ず持ち出されるこの有名な逸話は、良寛が世事に全く無能だったことを物語っている。彼は弟に息子の説諭を頼まれたが、何をどうしていいか分からなかったのである。途方に暮れた彼は、弟宅を去るに当たって、幼児のように、ただ、泣くしかなかったのだ。

大人になっても、人は幼児の部分を残している。良寛のように縛りから解き放たれて自由になったものには、特に多量の幼児性が温存されていて、ピンチに追い込まれると、子供と同じ行動に出て窮地を逃れるのである。

トルストイは、「イワンの馬鹿」で、「聖なる愚者」を描いている。「戦争と平和」に登場するピエールも「聖なる愚者」であり、性格の奥に多量の幼児性を残していた良寛も、「聖なる愚者」だったのである。

・・・・さて、ここで宿題になっていた、「フランクルを完全に忘れていた理由」について考えてみよう。

私は若い頃に、内村鑑三の「余は如何にして基督信徒となりし乎 」をはじめとして、何冊かの彼に関する研究書を読んだ記憶がある。だが、いまではその内容をすっかり忘れてしまっている。その忘れ方が、フランクルの著書の場合とよく似ていることから、私は自分の内面に忘却のための何らかのメカニズムが働いているのではないかと考えるようになった。

私の意識の一方にストイックな生き方を是とする判断があり、他方にその反対の自然法邇を是とする考え方があって.この両者が見えないところで戦っているような気がするのだ。そして、今や、この争いに決着がつき、後者が優位を示すようになったので、前者の記憶が薄れはじめたのではないか、というように考え始めている。

人を制約していた縛りが解けたとき、地下から露頂するようにあらわれてくるのが「いのち」であり、これが内面にある過剰な観念や不要な記憶を消して行くのではないか、そんなふうに考えはじめた私は、間違っているのだろうか。