甘口辛口

読書のための細い道(4)

2012/10/18(木) 午後 2:18
読書のための細い道(4)

旧制高校時代の加藤周一は、実によく本を読んでいる。中学生だった5年間を「愚にもつかぬ教科書」を読んで過ごしたという痛恨の思いがあったから、彼は自由な生き方が許される旧制高校に入ると、憑かれたように本を読むようになった。その頃は、まだ外国語の本を早く読むことが出来なかったから、彼が読むのは翻訳書だった。

彼は、三日に一冊、年に百冊を読むというノルマを自分に課した。このノルマを実行に移すために、彼は日常座臥一冊の本を携えて、僅かな暇を盗んでその本を読み続けた。加藤周一は、自身の文学的教養が、国際的に横に拡がってはいるけれども、未だ、それほど深いものではないことを知っていた。この傾向は、日本人全体に共通するものと思われたから、彼は後に日本文化を「雑種文化」と呼ぶようになる。

こういう加藤周一は、わが国の知識人たちに、どのように評価されていたろうか。戦後の日本を代表する二人の「知の巨人」による評価を見てみよう。

丸山真男:「私は自分では研究者仲間からディレッタントと思われるくらい比較的に関心対象が広いほうだと思ってますが、その私が逆立ちしても加藤君の視界には及ばない。加藤君の守備範囲が広すぎるのではなく、日本の文学者やアカデミシャンの守備範囲(或は攻略範囲)が狭すぎるから余計目立つのです」。

吉本隆明:「(彼は)さしずめ、西欧乞食が洋食残飯を食いちらしたあげく、伝統詩形に珍味を見出しているにすぎない」

加藤に対する評価は、丸山真男と吉本隆明では、大きくひらいている。だが、二人とも加藤周一が一流の読書家であり、博大な知識を持っていることは認めていた。では、一流の読書家になるために必要な条件とは何だろうか。

それは、知性ではなく、「情の深さ」なのである。

丸山真男も一流の読書家だったが、訪ねてくる友人や編集者に、自分の書庫を見せることを固く拒んだといわれる。もしその理由が、蔵書の中に碩学に相応しくない駄本や通俗書が混じっているからだとしたら、恥じるに及ばない。読書というのは、そこから始まるからだ。

人が文学作品を好むようになるのは、ふとしたはづみで、例えば通俗作家の通俗小説を読んで興味を感じ、以来、その作家のものを次々に探して読むというようなことからなのだ。小説を読んで特定の作家が好きになり、その作家の作品を読みあさる、あるいは、天文学の本を読んで宇宙に興味を感じ、以後、宇宙に関する本を片っ端から読む、こうなるのは、知性のためというよりも、当該人物の情が深いからであり、内面に愛の欲動を深く秘めているからだ。

愛の欲動は誰にもあるけれども、それを手近なところで充たしてしまえば、本を読む必要はない。加藤周一は女性関係に臆病であり、選ばれた少数の友人と交わるだけだったから、愛の欲動が読書に向かって一途にあふれ出たのである。

しかし、特定な作家や特定の知的ジャンルに向けられていた興味が、何時までもそこに留まっていることはない。やがて興味が飽和点に達すると関心は別のものに移るのだが、このエネルギーの移行にあたって、はじめて持って生まれた知性というものが必要になるのだ。

加藤周一は京都在住の未亡人を愛していたが、間もなく彼女と別れている。オーストリア娘は、芸術を愛し、知的好奇心が旺盛だった点で、未亡人を越えていたからだった。

加藤は西欧の文物を愛しながら、日本の古典、特に短歌を好んでいた。彼は万葉集もよく読んでいたが、その好みは古今集系の詩文に向けられ、中でも源実朝を愛していた。彼が、西欧の文物と古今集のどちらを先に愛したかは明らかでないが、この両者は彼の内部にあって包越関係、あるいは相補関係にあったのである。

学校の生徒にテレビ番組の嗜好調査をしてみると、知的にすぐれた生徒は好む番組を次々に拡げて行くが、反対のタイプの生徒は何時までも同一の番組に固着し続けるという。悪い意味でのオタク化現象が見られるのだ。
読書についても、同様の現象が見られる。知的な生徒が、読書の対象をAからBに移したとすれば、それはBがAを内に包みながらAを越える包越関係にあるか、Aの足らない点を補う相補関係にある場合なのだ。

読書家は、最初、細い道を歩き始めるけれども、やがて道は細路を併せて広くなる。そして包越関係、相補関係を経て、読書範囲は拡大を続け、四通八達した大路になる。加藤周一の「日本文学史序説」などを読むと、西洋乞食だった彼が大路に出て日本文学の広大な野を自由に歩み始めたことが分かるのである。

だが、よく分からないのは、彼が死を予期するようになってから、カトリックの洗礼を受けていることだ。これには、カトリックの信者だった母の影響があると思われるが、しかし彼は信仰に関する限り母に対して一定の距離を置いていたはずだったのである。

生前の母は、冗談めかして加藤周一と周一の妹である娘に、「おまえたちが二人とも信者になってくれればいいのに。死んでもまた天国で会えるからね」と言ったことがある。

妹が、「だって、天国に行けるかどうかわからないのに」と反撃すると、母は、「いいえ、心のよい人は、きっと天国へ行けると思うよ」と言う。加藤も娘もカトリック信者にならないことがはっきりしてから、母は善人も天国に行けるという考えに傾いていったらしかった。母は二人の子供の善意をかたく信じていたので、善意を罰する善(神)があるとは、考えられなかったのだ。

母は、「神父様のお話にもおかしいところがあるね、何でもこの世のことが思召しで片づくとしたら、子供が死ぬのも思召しになってしまう……」といったこともある。

医者の父は、母が教会通いをすることを喜んでいなかった。母は、父に説得されて、特別の機会がなければ、教会へも行かず、日曜日に教会へ行くことはほとんどなかった。父の説得は、ここまでは成功していたが、母を無神論にすることは出来なかった。加藤自身は、「信仰は例えば恋愛のようなものだ。だれかに惚れることが必要だからといって、惚れられるものではない。惚れる必要がなくても、惚れるときには惚れるものだから」と考えていたから、母の信仰を変えさせようなどとは考えず、自分は不幸にして母と同じ信仰をもつことができないとだけ考えていた。

母の死後、彼は自分の死を考えるときに、何の理由もないのに母と同じ癌で死ぬだろうと思い、もし天国というものがあるとすれば、母はそこにいるにちがいなく、もう一度そこで母に会えるかもしれないと考えたりするようになった。が、だからといって、カトリックに入信することはなかった。

その加藤が最晩年にカトリック教に入信し、洗礼を受けているのである。

正宗白鳥は学生時代にキリスト教の洗礼を受けたが、その後、棄教している。彼は明治・大正・昭和を通じて活躍した作家で、ニヒリズムの苦い味わいを帯びた犀利な批評を書くことでも同業者たちに恐れられていた。その彼が、83才になって膵臓癌のため死ぬ直前に牧師を呼んで告解し、再び神のもとに帰ることを誓っている。

いったい、これはどうしたことであろうか。何となく宿題を突きつけられたような気がするのである。