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死ぬ前にしたいこと(4)

2012/11/7(水) 午前 10:41
死ぬ前にしたいこと(4)

話を続ける前に、戦後、私の実家に暫く逗留していた木彫師の話をしたい。その木彫師は、地方では彫刻の名手として知られていたから、部落の神社の内陣を木彫の彫刻で飾ることになったときに、村に呼ばれてやってきたのだ。

本来なら、一ヶ月近く泊まり込みで作業を続けるのだから、部落の側で宿泊用の旅館などを用意しておくべきだったが、何しろ戦争が終わってから間もない頃で、彫刻を頼んだ側も、頼まれた側も双方が貧しかったから、木彫師を旅館ではなく普通の民家に泊めることになったのである。私の実家が、その宿舎に選ばれたのは、二階にいくつもの空き部屋があったからだった。

木彫師は、食事を外で済ませて、寝るためだけに家に戻ってきたので、家族が彼に気を遣う必要はなかった。実家には、夏期講習のために招聘された京都大学の高坂正顕教授なども泊まって行ったことがあり、そうしたときには宿泊料を取らなかったから、木彫師の場合もタダで部屋を提供したのだろうと思う。

実家の二階には、旧制中学生だった私の居室もあったから、木彫師が二階にやってくると、見るともなしに彼の行動を眺めることになった。彼は60を過ぎた老人で、頭髪も口ひげも白くなっていた。印象的だったのは、彼が他人の家で寝起きするようになっても、まるで自宅にいるように落ち着きはらって日々を過ごしていることだった。

彼はどこかで夕飯を済ませて帰ってくると、毎日、電熱器のようなもので燗をつけて、徳利一本分ほどの酒をうまそうに飲んでいた。そして、そのあとで別室に移り、墨絵などを描くのだが、その際、彼は太い筆に水をたっぷり吸い込ませ、その筆を口に含んで水を啜るようにして呑み込むのである。

(何のために、あんなことをするのだろう。水が欲しかったら茶碗で飲めばいいではないか)と私は思ったが、どうやら彼は薄墨で背景を描くとき筆先に含ませる水の量をああいうやり方で調整しているらしかった。

それはいいとしても、木彫師が自分で彫ったと思われる高さ30センチほどの裸婦像を身近に置いて離さない理由が分からなかった。裸婦はミロのビーナスを思わせポーズをしていて、裸婦の顔立ちも姿態も明らかに欧米の女性のものだった。それを彼は、寝る間も枕元に置いているのである。

私には彫刻作品に対する鑑識眼はなかった。だが、その像があまりにも美しい女性像になっているので、かえって魅力が失われているように思えた。とにかく何か変だったのだ、現世を超脱した仙人のような木彫師が、不自然なほど美しい西洋女の裸婦像を彫り、それを寝た間も離さないで身近に置いているのだ。

頭の片隅に引っかかっていた疑問が解けたのは、私自身が老齢になってからだった。私は、新聞で鋳鉄製の小型の地蔵像(高さ20センチ)が売り出されている広告を見て欲しくなったのである。注文した地蔵が家に届くと、文鎮の代わりに机上に置いて毎日眺めるようになった。

地蔵は民衆と同じ格好をして、民衆の中に紛れ込んで、困っている人間を助けるとされている。私は格別、地蔵の助けを借りようとは思わなかったし、また、地蔵のようにひとを助ける気もなかった。私には、そんな力はないのである。しかし地蔵は、私が考え得る最も望ましい菩薩であり、私が共にありたいと願っている、ほとんど唯一の「他者」なのであった。

だが、私が地蔵と共にこの世にあることは不可能だった。そもそも、地蔵はこの世にも、何処の世界にも、存在しない空想上の人物なのである。だから、鋳鉄製の地蔵は、私にとって、望ましきものの象徴だったのである。

木彫師が、この世にありえないほど美しい裸婦像を彫り上げたのも、そして、それを寝ている間も身辺に置いて離そうとしないのも、それが女体美の象徴だったからだ。老齢になって、女を抱くことが出来なくなった彼は、自分が理想とする裸婦像を作り、それを生身の女の代わりに愛しているのである。

彫像は彼にとって、女性一般の象徴であり、この象徴を通路として彼は癒しの世界に出て遊んでいたのである。レオナルド・ダビンチは旅するときにもモナ・リザの肖像画を持ち歩いていたといわれる。木彫師に取っては、裸婦像がレオナルド・ダビンチのモナ・リザと同じ役割を果たしていたのだ。

──さて、ここから前回までの話につなげることにする。

人間は自分本来の生き方をするためなら、命を縮めてもかまわないという「自己完遂」の欲求と、自分は一日でも多く長生きしたいという「自己保存」の欲求を併せ持っている。とすれば、私たちは、この矛盾する二つの欲求を何とかして調整しなければならない。

「自己完遂」の欲求は、競争・冒険・成功を目指して大量の攻撃的エネルギーを放出する。そして、「自己保存」の欲求の方は、貝原益軒の養生訓にあるように、エネルギーの放出を抑え(「接して、もらさず」)、安全第一の生活を送ろうとする。だから、常識的に考えれば、自己完遂欲求と自己保存欲求の間の矛盾は、エネルギーの放出量を適切に調整することによって解消することが出来そうに思える。

では、エネルギーのアウトプット量を調節するためには、どうしたらいいだろうか。ここで銘記しなければならないのは、自己保存のためには、自分だけを愛してはならないという冷厳な事実なのだ。利己的な人間は、周囲を敵にしてしまうから長い目で見れば、結局彼は孤立して自己存在を危うくすることになる。

だから、自己保存のための最良の方法は、すべてのものを愛することなのである。老子の「慈」を頭に置いて生きることなのだ。

このことは、国際関係に目を転じてみれば、一目瞭然ではないだろうか。一国が戦争をせず、戦場で人命を失わないようにするためには、すべての国と友好関係を保ち続けなければならない。明治以後の日本は、ほとんど10年おきに出兵して他国と事を構えていたが、戦後の日本は平和憲法のもとで、すべての国と協調関係を築いてきた。戦後の日本が、ひとりの戦死者を出すことなく70年近くを過ごすことが出来たのは、敗戦後のわが国が平和主義を国是にしてきたからなのだ。

人間関係も国際関係と同じで、人は、すべての隣人と互恵の関係・相互扶助の関係を保ち、不当な権力に屈することなく生きて行けば(これがアナキストの生き方)、長生きすることが出来そうである。が、ここで問題は、周囲との協調関係を重視すれば、どうしても自己実現、自己完遂の面であきらめなければならない点がいろいろと出てくることだ。

こういうときに、有効なのが冒頭に述べた欲望の象徴化という操作なのである。

欲望を満たすことが出来なかった場合、クリスチャンは、十字架という象徴を持っているから、これを通路にして兄弟愛の世界に出ればいいし、仏教徒は数珠を常にポケットに入れて、これを象徴にして慈悲の世界に出るようにすればいいのだ。それよりもっといい象徴化操作は、目の前の山川草木をその背後にある光明世界への通路と観ずることではないだろうか。身近にフィギャーを置くとしたら、人形ではなく手に乗るほどの地球儀にすべきだと思うのだが、どうだろうか。