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結核体験者は長生きするか

2012/11/21(水) 午後 8:54
結核体験者は長生きするか


最近貰ったメールに、「結核を患ったことのあるものは、長生きする」という言葉があって、その箇所から目が離せなくなった。このことを持論にしている人の背後には、長年にわたって積み重ねられた観察智があるらしく、簡単に読み過ごすことが出来なかったのである。

私は昔、何かの本で結核を患った人間は、ガンになる比率が低いという記事を読んだことがある。ガンになりにくかったり、長生きしたりすることが事実だとしたら、結核になったことも、満更無駄ではなかったということになる(?)。

だが、これにはきっと反論もあるに違いない。その昔、結核患者は「国民病」といわれるほどたくさんいて、体力のない患者は早期にバタバタと死んでいったから、生き残った患者は本来長生きするような体質の持ち主だったかもしれない。

「老子」を愛する私としては、もし結核体験者が長生きするとしたら、それは患者たちが身につけた老子的生活システムのためではないかと考えている。

結核の特効薬であるストマイが出現するまでは、結核に対する治療法は「静臥療法」が中心になっていた。だから、各地に設立された国立の「結核療養所」では、午後一時から三時までを安静時間にして患者たちを強制的にベットに静臥させていたし、夜は午後九時には消灯という規約を守らせていたのである。

静臥療法というのは、体力のすべてを結核菌との戦いに振り向けるために、患者たちのエネルギー支出を最低限に抑える療法だった。だから、自宅で療養する患者も、「寸暇を惜しんで」静臥にはげんだのだ。私は病院に入院する以前に自宅の二階で療養していたが、階段の昇降でエネルギーを浪費してはならないと考え、階下に降りるのを日に数回という具合に制限する規約を作って実行していた。

今になって考えてみると、私が中年になって老子的な生き方に惹かれるようになったのも、病気療養中に静臥療法を続けたという下地があった為かもしれない。

老子は、「成功を目指して努力せよ」などと、ひとことも言ったことはない。それどころか、努力しすぎると、マイナスの結果を生むだけだよ(「過ぎたるは、及ばざるがごとし」)と忠告する。一番いいのは自然に任せて何もしないことだが、もし、何かをしなければならないということになったら、急がず慌てず、ゆっくりやることだと助言している。

老子は、徹底した合理主義者なのである。

彼は、衆人が無意識に通り過ぎてしまうところに、自然の叡智があるという。人は、合理主義に徹し、すべてを自然の平衡化作用に委ね、「省事」を心がけて生きるべきなのだ。にもかかわらず、多くの人間は、食い過ぎ、やりすぎて(「余食贅行」)自滅している。

自然に任せて、省事を主義にして生きようと説けば、衆人は嘲笑するに違いない。しかし、ひるむことはないのだ。「下士は、道を聞けば、大いに笑う。笑わざれば、以て、道となすに足らざるなり」である。

もし、結核を患ったものが長生きしているとしたら、結核菌を押さえ込んだことによって、免疫力のようなものが身に備わったからではなく、静臥療法によって老子の説く「タオ(道)」の生き方を身につけた為ではないか、老子の「慈」を信奉する者として、私はそのように考えるのである。