甘口辛口

「サードマン」と「お迎え」現象(1)

2012/12/8(土) 午後 3:52
「サードマン」と「お迎え」現象

かなり前のことだが、Eテレビを見ていたら、「サードマン」現象を取り上げた番組を放映していた。サードマンとは、人が生きるか死ぬかというピンチに立たされたときに出現して、彼をその窮地から救い出してくれる何者かであって、「奇跡の生還に導く人」と言う意味に使われている。

インターネットでしらべて見ると、こう書いてある。

<極地や高山などの過酷な環境で、しかも生還を期しがたいような絶望的な状況に追い込まれた人間が、(多くの場合目に見えない)何者かが自分のそばにいる気配を強烈に感じるという現象。体験者は、その「存在」に守られ導かれているような安心や希望を感じ、それが彼らに状況を切り抜けるための努力を続けさせ、結果的に、奇跡的な生還を果たすことがある>

Eテレビにはサードマンが人を救った実例として、海底洞窟の探検中に地上と繋がる紐を離してしまって危うく死にかけたケースや、9・11の世界貿易センタービル事件で遭難したケースなどをあげている。なお、Eテレビによると、この「サードマン」をアメリカ人は昔から「守護天使」と呼んでいて、アメリカ人の60パーセント以上が、自分にはこの守護天使がついていると信じているという。

このことが頭にあったから、「文藝春秋」の12月号に掲載されていた「お迎え」現象に関する記事を読んだ時には、ああ、日本でもこんな妄想が、と少々がっかりした。「お迎え」とは、死に瀕したものが先に死んだ家族や友人などを身近に目撃して、自分を迎えに来てくれたと信じ込む現象で、サードマンの存在を信じない私は、お迎え現象もまた錯覚に過ぎないと考えていたから、がっかりしてしまったのだ。

「文藝春秋」は「お迎え」に関する解説に代わるものとして、この現象について調査を続けてきた岡部健医師と京都大学のカール・ベッカー教授との対談を掲載している。

  (岡部) やっと「お迎え」が社会に認知されてきた。
  
  (ベッカ−)岡部先生がいなければ、多くの患者さんも「お迎え」の話を口に出せなかった。精神が おかしいと言われかねないから。先生が開拓したからこそ、少しずつ話せるようになった。
      ・・・・お迎えは、一千年も前から日本にずーっとありました。私が来日した四十年前には、まだ自宅で亡くなる人もいたから、少しはそういう話を聞きましたが、それからほどなく、みんな病院で死ぬようになって、どんどんそういう話は消えていったのです。

これで見ると、サードマン現象もお迎え現象も、今や社会的に認知されるようになり、この両者は当事者の錯覚による幻影などではなく、実際に存在する現象として広く世に信じられているらしいのである。

とにかく私は眉に唾をつけて雑誌を読んだのだが、同じ雑誌の「犠牲死」に関する記事には啓発されるところがあった。人間年を取ると、超越者の力で死を免れて長生きしたというような話よりも、生に恋々とすることなく死を積極的に選んで淡々と死んでいったというような話により強く惹かれるようになるのだ。

私を啓発してくれた記事というのは、一行か二行の短い文章で成り立っていた。イエスは人類の原罪を贖うために、進んで十字架に掛けられたのだから、その死は「犠牲死」と呼ぶべきだというような文章だった。

第二次世界大戦中にナチスがユダヤ人収容所でおこなった残虐な記録を読んでいたら、そのなかにこんな話があった。囚人の中に所内規約に違反した者があると、ナチスは抽選で囚人の一人を選んで処刑したというのだ。くじ引きで処刑する人間を選ぶというナチスのやり方が、囚人たちをいかに恐怖させたか、容易に想像できる。

抽選の結果、処刑される囚人が決まったときに、囚人の一人だったキリスト教の牧師が自分が代わりになるから、選ばれた囚人をゆるしてやって欲しいと申し出た。この希望は受け入れられて、牧師が代わりに処刑されたという。

牧師がこうした行動に出たのは、イエスが自分を犠牲にして民衆のために処刑された故事にならうためだった。彼はイエスを信じる者として、いざとなったら自分を犠牲にして隣人を救う覚悟を持っていたのである。

江戸時代の武士たちが、主君のために平気で命を投げ出したのも、臣たるものは、君のために死すべきだという規範を日夜心に刷り込まれていたからだし、太平洋戦争中の日本人が、特攻隊を志願したり、玉砕したりしたのも、「海ゆかば」の歌詞にあるように、「大君の辺にこそ死なめ」という覚悟を上から刷り込まれていたからだ。

筑摩書房刊行の「人生読本──死について」を読むと、戦争中の日本人は生きるか死ぬかの境界に立たされたとき、生を選ぶ代わりに、死を選んでいる。例えば、こんな一節がある。

<太平洋戦争の期間、日本人は非戦闘員をも含めて、死ななくてもよい場合にも数多く死んでいった。
無理な作戦や捕らわれの身となることへの恐れのためである。だがこれらの理由の底には、死者との強い連帯感のゆえに、西欧文化圏の人びとよりも、生死の境を相対的に容易に乗り越えられる、という内在的な条件が含まれていたかもわからない。たとえばサイパン島ではあまりにも多くの日本人が死んだ。
 
「……トラックは海ぞいの道に出た。高さ二百メートルはどの断崖、波打ち際に、たくさんの死体が浮かんでいる。女ばかりである。……大きな浪がくるごとに、その死体は岩にぶつかり、浪の中に呑まれ、また浮いている。私は、もう涙も出なかった。『日本人は、なぜ、こんなに死ぬのでしょうね。可哀想に……』そのアメリカの将校は涙を流している」(菅野静子『サイバソ島の最期』出版協同社)>

B・C級戦犯で処刑された日本人の遺書にも、自分に掛けられた冤罪に抗議する代わりに、淡々と死んでいったものたちの遺書がたくさん採録されている。連合国軍は、見せしめのために、多くの日本兵を戦争犯罪者として処刑したのだ。

<(自分は)再建日本の礎として又部隊長の身代りとして(処刑台に)行く。日本人の誰れかが行かなければおさまらないのだ。自分の死は自己の責任に依るものにあらず人の身代りなり。此の点意義ありて心中自ら平静なり」(兼石績、陸軍大尉、二二・七・二六、広東、四一歳没)>。

<部下の罪を一身に受けて一人の死に何名かの可愛い部下が助かると思えば死も亦楽しく幸福である。私は立派な戦死です」(横田時三、陸軍軍曹、二二・二・二四、マニラ、三〇歳没)>

遺書の中には、こんな涙をそそるようなものもある。

<〔娘へ〕……智恵ちゃんに靴やシャボンなど色々買っておきましたがお家へ届かなくなりました。……良く勉強してよく遊んで丈夫に大きくなって下さい。生き物は殺さないようにお父さんが頼みます。トンボは捕らえてもすぐ離してやって下さい。お母さんの言うことをきいて神様や仏様を良くおがんでくらして下さい」(信沢寿、陸軍軍医中尉、二二・二・二五、シンガポール、四一歳没)(『世紀の遺書』)

(つづく)