甘口辛口

横綱大鵬の晩年(1)

2013/1/27(日) 午後 2:09
横綱大鵬の晩年

柏鵬時代と言われた頃の、柏戸・大鵬の人気は相当なものだった。

柏戸と大鵬の取り組みがあった日のことだった。所用があって知人宅を訪ねたら、TVを前にしてその家の兄弟二人が無言で座っていた。二人とも小学生で、弟の方は当時一年生か二年生だった。その弟がいかにも無念そうに、目に涙を溜めてうつむいている。反対に、兄の方はニコニコしている。

この兄弟は、一体、どうしたのだろうと思って、その場にいた知人の方に目をやったら、知人が説明してくれた。大鵬が負けたので、弟が口惜しがって泣いているのだという。兄の方は柏戸が贔屓で、弟は大鵬のファンで、相撲に関しては兄弟は犬猿の仲だから大相撲が始まると、何時でもこうした光景が展開するのだという。

私は改めて柏鵬の人気がいかに高いか知らされたのだが、その頃、電車の中で柏鵬について語る乗客の対話を聞いたことがある。相撲の世界に詳しいらしい50格好の男に、その連れ合いの乗客がいろいろ質問する。すると、彼はどんな問いにもスラスラ答える。その話が面白いので、周りの客たちも、いつしか自分たちの会話をやめて、男の話に耳を傾けていた。

そのうちに相撲通らしい男は、「柏鵬時代は、これからも続くだろうか?」という問いに対して、こう答えたのである。

「大鵬と柏戸じゃ、てんで問題にならないね。柏戸は、そのうちに大鵬に全く勝てなくなるよ」

まさかと思いつつも、男の口調があまりにも断定的なので、もしかすると本当かもしれないという気持ちになった。そして、その後の経過は、男の言うとおりになったのである。当初は、むしろ優勢だった柏戸対大鵬の勝負が、場所を重ねるごとに大鵬優位になり、やがて柏戸は大鵬に勝てなくなって、ついに引退に追い込まれてしまったのだ。

しかし、奇妙なことに柏戸の人気は、大鵬に勝てなくなってから、かえって高くなって行ったのである。

柏戸が大鵬に水をあけられ始めた頃、実家の母親を訪ねて行ったら、母は隠居所のコタツにあたって一人でテレビを見ていた。テレビは大相撲の中継をやっている。60を過ぎている母は、テレビが報じるスポーツ番組に興味を示すことはなかったが、唯一の例外が大相撲の中継なのであった。

相撲の放映が終わると、テレビを消した母は問わず語りに「相撲取りの中では、柏戸が一番好きだよ」と言う。「どうして?」と尋ねると、母はちょっと困ったような顔になった。

「だって、柏戸は勝ったあとで負けた相手の手を取って、土俵に引き上げてやるじゃないか。何時でも、そうしているよ」

どうやら、それは、母がその場で思いついた理屈らしかった。本当は母は、判官贔屓の心理から柏戸の肩を持っているのである。弱者に味方する判官贔屓の心理は、単に一方が弱いというだけではダメで、強者の側が万全の体制を整え、弱者が「飛んで火にいる夏の虫」という形で敗北必至の状況にあるときに沸いてくるらしいのである。「川中島の決戦」のような彼我の力が拮抗している場合には、この心理は働かず、源頼朝に対する義経のように相互の力の差が比較にならないほど大きな時に、滅び行くものへの憐れみとして判官贔屓の心理が生まれてくるのだ。

大鵬は攻めと守りの両方に抜群の力を持っていたといわれる。たいていの場合、彼は突っかけてくる相手をふわりと受け止めて、四つ相撲に持ち込む。そして、顎を相手の一方の肩の上に乗せて、相手の出方をゆっくり待つ姿勢になる。この時、大鵬は顎を相手の肩に乗せて休みながら、顎を乗せられた相手が、刻々力を失って行くのを待っているように見えた。相手の肩に顎を乗せているときの大鵬の横着な表情を見ていると、大鵬が対戦相手よりも格段に傑出した力量を持っていることが一目瞭然で分かるのだ。

判官贔屓の心理は女性により強く働くらしく、私の家内も柏鵬時代の頃、柏戸が好きだったといっている。男性の好みは柏鵬の二人に集中するというようなことはなくて、鶴ヶ嶺、清国、大麒麟などの個性的な力士に分散していたのだが。

私は一種の習慣から大相撲の実況放送を毎場所視聴しているけれども(日に30分間ほど)、昔に比べるとTVに向かう時の姿勢がずいぶん違ってきている。以前は、それなりにヒイキの力士がいて、彼らが土俵に上ると内心で声援していたが、今は特定の相撲取りを声援するようなことはなくなって、興味はむしろ土俵を取り囲む桟敷席の客に向けられるようになったのだ。

桟敷席の客は、8〜9割までが年配者である。そして、その相当数が桟敷席料を年間通して購入しているらしく、場所中に同じ座席に同じ客が座っていることが多い。年間通して桟敷席を購入するためにはかなりの費用が必要だろうから、そうした客はきっと資産家であり、相応の社会的地位を持っているに違いない。

そんな「特権階級」的観客やそれ以外の観客を眺めていると、土俵上の相撲取りに対する興味は相対的に薄らいでくる。が、週刊誌が「大鵬の悲惨な晩年」に関する特集を組んでいることを知ったりすると、これは捨て置けないという気になって、スーパーにでかけた折、書籍部に立ち寄って問題の週刊誌(「週刊新潮」)を買ってしまうのだ。

週刊誌が、大鵬の晩年を悲惨なものにしたとして挙げているのは次の三つだった。

(1)大鵬の長女は女子大生時代に、一回り年上の男と交際し、高価なプレゼントをもらいながら、途中で相手との関係を断ってしまった(出典「海燕」所載の「くわせもの」という小説)

(2)大鵬の夫人は、部屋の若い弟子たちに宛てラブレターを書き、錦糸町のホテルで逢い引きを繰り返していた(出典・男性週刊誌)

(3)弟子の露鵬は大麻疑惑で廃業に追い込まれ、女婿の貴闘力はその賭博癖のため舅の金を5億円以上使い込み、野球賭博問題で相撲協会から解雇されている

この三つが本当だとすると、晩年の大鵬の生活が悲惨だったのは間違いないことかもしれない、加うるに彼は、76年に脳梗塞で倒れ、半身麻痺の後遺症を抱えていたのだから。だが、大鵬はこれらの事件が相継いで起きても、へこたれているようには見えなかった。

週刊誌によると、大鵬に散々迷惑をかけ、今は養嗣子の関係も断たれている貴闘力は岳父だった大鵬についてこう語っているという。

「(大鵬親方には)迷惑ばかりかけましたが、俺も今、反省して一生懸命働いている。それで、『すみませんでした』って謝りに伺ったら、『わかった、わかった』と。3年前には怒っていても、やはり心の広い人でしたから」

大鵬が悲運にあっても動じず、自分を裏切ったものたちに寛大だった理由は何だったのだろうか。

(つづく)