甘口辛口

美しい顔

2013/2/17(日) 午後 9:11


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聖ベロニカ(1978年作)
美しい顔

日曜日には、NHKの「日曜美術館」を視聴することを習慣にしていたので、わが国の美術界の消息にはある程度通じている積もりだったが、80歳過ぎになって「日曜美術館」で船越保武と佐藤忠良の作品を初めて知ってから、自分の知識が穴だらけであることを悟るようになった。船越保武と佐藤忠良の作品を知らないでいて、どうして現代の日本美術を知っているといえるだろうか。

私は戦争中に写真雑誌に載っていたインドネシアの少女を見て、こんなにも清潔で美しい娘がいるのかと思った。私はそれ以後、実在の女性は無論のこと、画家の手になる芸術作品でもこれほど美しい少女を見たことがなかった。が、船越保武の作品を目にすると、そのほとんどすべてがインドネシア乙女の顔に匹敵するほどの端正で美しい顔をしていた。

それも当然だった。

船越保武は、これまで偶然に美しい娘を見かけると、それを彫刻家の目で眺めて記憶し、それを後日、作品にまで昇華して来たのだ。彼は、書いている。

<アッシジの聖フランチェコ寺院を出たとき、俄かに夕立が来て、どしゃ降りになった。通り雨のようだったので、私は近くの回廊の軒下で、雨の上がるのを待っていた。私のあとから、そこにとび込んで来た若い修道女が、少しうつむいて、石畳を打つ雨あしをじっと見ていた。
美しい人だった。この世の人とは思われないほど美しい人だった。
私はその横顔を記憶しておこう、と思った。そのとき見た横顔が、数年後のいま、私の中で聖女クララになっている。マルチーニの描いた聖女クララはどこか怖いような顔なので、私はアッシジの雨の中で見たその修道女を、聖女クララと思うことにしている。>

話はこれで終わるのではなく、後日談がある。

<私がそのことを話すと、妻は、「あの時、そんな人はいなかった」という。しかし私は、はっきりとその修道女を見た記憶をもっている。今でも、あの横顔がこの眼に見える。雲間から陽がさして来て、その横顔の輪廓の線が光ったのを覚えている。その光りを見たので、やがて雨が上がるとわかったのだから(「巨岩と花びら」)>

船越保武は、修道女を正面から見たいと思ったが、なぜか相手の前に回ることが出来なかった。じっと雨あしを見たまま動かないその人が、あまりに静かで清らかなので、彼は金縛りになったように、動くことが出来なかったのだ。その人が立ち去ったとわかったのは、相手が彼の視野から消えたからで、修道女が立ち去るところを船越は見ていない。

船越保武は、すぐそばに立っていたその人の、ヴェールの下の額から鼻すじ、口から顎の線を瞼に刻み込もうと努力していたのだから彼女が実際に同じ場所にいたことは間違いないと思われた。
船越が強調しているにもかかわらず、彼の妻のいうようにこれが船越の幻覚だったとすると、それは信仰篤い彼を襲った宗教的な幻覚なのである。彼に幻覚を起こさせるほど強かった信仰を、最初のうちは彼は拒み続けていたのだった。

船越保武の父親は、駅長をしていた。

<父は熱心なカトリック信者であった。わたくしは子どものころから毎日曜日、かならず教会のミサに連れて行かれた。それが嫌でならなかった。何ということなしに、子ども心に反抗していたのであろうか。公教要理の勉強にもずいぶん永く通わされたが、ついに父の生前には洗礼を受けなかった。わたくしの妙にびねくれた意地っ張りがそうさせたのか、ときどき駄々をこねて父に反抗した>

船越保武は十八歳の春に、右脛骨の骨髄炎にかかった。はじめに手当がまちがったせいで、脛骨はびどく悪化して、骨を削り取る手術を二度もやった。彼が発病したとき、父もからだが悪く床についていたのだが、足の病気の腫れを治すにはハコべの葉の汁が卓効があると聞いて、父は夕方人力車にのって雪の降る中をでかけたことがある。暗くなってから、父はほんの少しばかりのハコべを持って帰ってきた。雪が深くて少ししか採れなかった、と父は淋しそうに呟いていた。

手術後の、かなり快復したころ、医師の指示で、父は毎日、船越の醜く変形した脛の傷口をクレゾール液で洗ってくれた、メスの痕が無惨に残る傷口を、いたいたしそうに眺めながら。

ある日、父は息子の傷を洗うとき、小さな硝子の瓶に入った透明な水を数滴、傷口にかけた。そして、「これは教会からいただいてきた尊い聖水だ。これで傷は早く治るのだ」といった。いつもよりいっそう緊張した父の態度から、船越は父の深い愛を感じたが、突然「やめろ、傷口が悪くなる」ときちがいのようにわめいていた。

傷口の中、1センチほどのところに骨があるのだ。恐怖に駆られた船越は、バイキンが入る、と言って怒鳴り続けた。父はすぐクレゾール液で息子の傷口を洗い直し、聖水を流してくれた。船越は父の心をずたずたにしてしまったと感じたが、一言も父に詫びなかった。父は処置を終えると無言で自分の部屋に去っていった。

父はその年の暮れ近く癌で死んだ。死んだ父の冷たい頬の髭を剃りながら、船越は聖水を足の傷にかけてくれたときの父を想った。だが、彼はこのときにカトリックに入信したのではなかった。結婚して長男が生まれ、その長男が生後間もなく急死したのを機に、自らも洗礼を受けてカトリックに帰依したのである。

それから30年余りたって、船越保武は畢生の大作、「長崎26殉教者記念像」に取り組んでいた。殉教者の像を一人ずつ作っていって20人目のフランシスコ・キチの像に取りかかったとき、船越はキチの塑像が死んだ父の顔に似ているような気がしてきた。キチの像が完成した夜、台から下りて一人で像の顔を見上げていると、父が彼に語りかけているように思われ、アトリエで棒立ちになっている船越の目から、涙が止めどもなく流れてきた。
船越保武は、4年がかりの制作の間に、黒いガウンを着た父が、声もなく涙を流しながら、自分の頭を撫でている夢を見ていた。昼間、明るいところでキチを見上げてみると、キチの顔は少しも父に似ていない。だが、夜、一人でキチを見上げていると、それは父の顔に変わり、彼に語りかけてくるのだ。

船越は70代の半ばに脳梗塞で倒れ、右半身が不自由になったが、すぐにリハビリを開始し、その後、死の直前まで約15年間、左手で創作を続け89歳で亡くなっている。

こういう彼の経歴を眺め、入信後の彼の信条を知れば、船越がなぜ清純な少女像に執着するか分かるような気がする。彼の信条は、次のようなものだった。

───自分を含むすべての存在は、とてつもない大きな力によって動かされている。それを神の力といってもいいかも知れない。
私は、このまま流れの中に浮いて、流されて行けばいいのだ。そうして,野の花が風に吹かれ流れにのって流れ去る様に,私もまた同じ様に流れてゆけばよいのだ。私の苦悩も焦燥も…・‥。
野の花々と同じ運命をたどるとすれば,今私のなすべきことは何もない。そう思ったときに,私の中にあるひとつの憧憬が頭をもたげて来る。ひとつの憧憬、それは職人の生き方についてのあこがれ。それが今でも根強く私の中に生きつづけており,種々の悪条件はさほど悲しむべきことではないということに今更の様に気がついたのだ。
そうだ,私は生命のあるかぎりそのように生きてゆけばよいのだ。職人の生き方に憧れるもう一人の職人,それが私自身というものだろう───

彼は大いなるものに自分をゆだね、一介の石工職人として生きて行こうと考えている。野の花々、人の世の少女たち,その運命は彼のそれよりも、もっと弱く儚い。だから、彼は鑿で石を刻んで、彼女らの清純な美しさを長
く残してやろうと誓ったのである。
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                             船越のデッサン