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続・美しい顔

2013/3/8(金) 午後 7:46

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続・美しい顔

以前に「美しい顔」を彫刻する船越保武の作品を紹介した。今日は船越とは別の意味で美しい顔を彫り続けた、もう一人の彫刻家を紹介する。「日本人が、初めて日本人の顔を彫刻した」といわれている佐藤忠良だ。

NHKの「日曜美術館」で、初めて佐藤忠良の「母の顔」という彫刻作品を見たときに、「ああ、これこそ世界で一番美しい顔だ」と思った。私は、テレビで水木しげるの奥さんをみたとき、日本人の妻として、最高の顔と表情を持っていると思い、その笑顔を記憶にとどめた。

だが、佐藤忠良の「母の顔」を見たときには、これをもう一段昇格させて、これこそ世界一の顔だと思ったのである。もっとも、「世界一」という言葉を冠さなければならない母親の良い顔は、その折々の身辺で、いくらでも見かけることが出来るのであるが。

佐藤忠良が彫り出す顔は、船越保武が彫り出して見せる顔とは対照的なのである。

舟越の少女像や女性像は、人が世俗の垢にまみれる以前の、純粋無垢の表情をしている。だからあれほど美しいのだ。あれは、個人が人としての閲歴を重ねる以前の、いわば原罪を知らない女たちの像なのである。だが、佐藤忠良の刻む男女は、世俗の中にどっぷりと漬かり、苦難を重ねてきた日本人の、業を背負った顔なのだ。

佐藤は安野光雅との対話集の冒頭に、こう書いている。

<僕のつくる人物像は、いつも普通に暮らしている市井の人が中心です。・・・・人間の顔はその人の表札です。そしてやはり地位や名誉の有る無しに関わらず、中身のある心のいい人が、いい顔をしています>

佐藤忠良の語るところによれば、母親は早くに夫と死別して、その後、二人の男の子を育て上げるために言うに言われない苦労を重ねて来たという。夫は、今でいえば農業高校の教師だったが、生徒に剣道も教えており、それが悪かったらしく、カリエスになって早くに病没した。そのとき、長男の佐藤忠良は6歳、弟はまだ2歳だった。
母親は、それまで暮らしていた宮城県から両親のいる北海道の夕張に移り、そこで針仕事をして子供を育てることになった。

貧乏暮らしで苦労した女は、世間との戦いで傷だらけになり、刺々(とげとげ)しい女になる場合が多い。だが、ひとの二倍三倍の苦労をしながら、それをやり過ごして、さほど傷を負わなかった女もいる。佐藤の母親は.そういう女だった。酸いも甘いも噛み分けた「開けたタイプ」の女性だったのだ。だから、佐藤がそうした母親の顔を表現しようとして努力しているうちに、出来上がった像は世界一美しい顔になってしまったのだった。

佐藤忠良自身、母親に負けない苦労をしている。

6歳で父親を失った彼は、母に連れられて北海道の夕張に渡り、その地の小学校に入学する。学校では成績が良くて、何でも一番だったという。それで算数の時間などに、先生が「忠良は絵を描いていてもいいよ」と自由に過ごすことを許してくれた。彼は子供の頃から、絵を描くのが好きだったのである。

中学校を卒業して、今後の身の振り方を母と相談したときも、彼が「絵描きになりたい」といった。すると、母は、「じゃ、やりなさい」と賛成してくれた。母が当時治療を受けていた歯医者にそのことを話すと、歯医者は心配して、わざわざ母子の家までやってきて、二日間にわたって忠良を説得してくれた。

「君は長男じゃないか。手に職をつけないで、絵描きなんぞになったら、失業者と同じになるよ」

歯医者の話を聞いているうちに、佐藤はすっかり怖くなって、歯医者の医院に移り、住み込みの書生になった。だが、どうしても絵描きになる夢を諦められず、一年後に、「やっぱり絵描きになります」といって上京する。そして、先輩や友人などに助けられながら、22歳の時に上野の美術学校の彫刻科に入学し、船越保武と同級生になるのだ。これ以後、佐藤忠良は船越保武と行動を共にすることになる。

美校を卒業して若手の彫刻家として活動を始めたのも束の間、佐藤忠良は軍隊に召集されて満州に渡り、日本の敗戦と共にシベリアに抑留される。そして、この世の地獄のようなシベリアで3年間を過ごすのだ。ここで、彼の人間観は一変する。

抑留された仲間の中には、大学の教授もいれば、高い地位にある役人や会社員もいた。だが、極限生活の中では、教養も地位も役にたたなかった。男だけの世界で、自分を見せ合って生きていると、肩書きは何の役にも立たない。彼は対談で、語っている。

<収容所ではみんなただの男になって自分を見せ合っている。そうすると本当につきあっていけそうだなと思う人たちは、地位も何もないような、お百姓みたいな人だった。それがいつまでも身にしみていたんでしょうね>

対談相手が、「佐藤さんは、金も名誉も何もいらないっていう人だから」というと、佐藤は、「僕は職人ですからね」と答えている。彼は芸術院会員を二度断わって、文化功労賞を二度断わって、勲四等も断わっている。彼は、さらに語り続ける。

<今の若者、体を使っていないなって思いますよ。私たち彫刻家のやっているのは、粘土こねて、恥かいて、汗かいて、失敗して、やり直す、職人の仕事なんです。話が飛びますが、恋愛もそうなんですよ。恥かいて汗かいて、やり直す切ない思いをしないと。抱き合うまでに時間をかけないとね。・・・・生物であることを忘れちやいけない。今、学校では若い人たちに向かって「失敗しないように」と教える。でも現実は何事も「失敗し、やり直して」の繰返し。だから続けられるんです>。

対談集を読んでいると、佐藤の何気ない言葉にハッとさせられたりする。例えば、こんな言葉──

「素描というのは、いちばんボロが出るんですよ。ちょうど雑談しているときと同じでね、構えていないのに力量がわかる」

佐藤忠良は自分の名声が高くなって来たことについて、苦い調子でこういっている。

「この間、久しぶりに旧作の原型を見たんですが、他人の目になって見るとなかなかよかった。昔はいい仕事をしたものですよ。いや 本当。やっぱり卑しさが身についちゃってるから、なんだかかっこいいことを言いながら、ひよっとこう受けがいいと、手のほうが先におしゃべりしちゃってるんですよ。もみ手をはじめちゃった作品になるの。まあ、皆さんはそうではないでしょうが」