甘口辛口

小6息子の置き手紙

2013/5/28(火) 午後 3:23
小6息子の置き手紙

机の引き出しから、新聞の切り抜きが出てきた。かなり以前の「信濃毎日新聞」に掲載されていた投書を切り抜いておいたもので、次のような内容の投書である。

           <小6息子の置き手紙>       
小学6年生の息子が公園で携帯電話を拾い、私と2人で交番へ届けました。交番では拾った人へのお礼のお金について3回聞かれ、息子と相談しながら権利を放棄しました。落とし主の方からの連絡についても、子どもが拾ったことを伝えていただければいいとお断りしました。
帰りの車の中で、息子が「なんで勝手に断ったの」と怒りだしました。私は息子の同意の上で断ったつもりでいましたが、息子はそうは思っていず、家に帰ってからも「勝手だ!」「じゃ、お礼がもらえなければ拾わなかったの?」と言い合いに。夫が間に入って息子は泣く泣く落ち着いたのでしたが・・・・その後家出の準備をしていました。
その場は収めたのですが、息子の置き手紙がありました。そこには「理由も聞かずに断るなんて。ぼくは褒められたかった。誰だってお金はほしい。少しばかり欲張りでもいいじゃないか」と書いてありました。
生意気盛りの息子との衝突はしばしばで、それもあって家出を考えたようです。落とし物を拾う→お礼をもらう、というルールのように思っていたのでしょう。追いつめられた子どもの気持ちを思い、大人の当たり前を押しつけたことに気づきました。せめて息子宛にお礼の電話をいただくようにすればよかったと思った出来事でした。(MS・42歳・松本市)

この投書を寄せた母親が、良識を具えた賢母であることに疑いはなかった。彼女は社会人として、何時でも、こうした賞賛に値する行動をして来たのだ。一方、息子の気持ちも理解できたから、私は市井の微笑ましい一挿話として、この投書を切り抜いておくことにしたのである。その時には、私はこの「微笑ましい一挿話」を母親の側に立って眺めていた。つまり子どもを育てる親の立場から、事柄を見ていたのである。

だが、時間を置いて今度この投書を読み返してみて、自分の見方が変わってきていることに気づいた。私はむしろ息子の立場から母子の争いを眺め、ひそかに小六の息子に声援を送っていたのだ。

確かに、拾得物を猫ばばしないで交番に届けたことを誰かに認めて貰いたがっている息子の気持ちは褒められたものではないかもしれない。そして、落とし主から謝礼があるかもしれないと期待する子どもの気持ちにも、素直に受け入れがたいものがある。小学校の6年生ともなれば、そのくらいなことはちゃんと分かっている。だから、交番で、母親が謝礼も何もかも断ったとき、子どもも母に同調してすべてを断ったのである。

その息子が帰りの車内で、「何で勝手に断ったの」と怒り出したのは、母親の二面性に対して普段から感じていた怒りがこみ上げて来たからなのだ。

人間には、外面(そちづら)と内面(うちづら)という二面性があって、普段は本音を隠して、外面を優しそうに装って生きている。特に、中年の女性は外側を菩薩のように見せかけているけれども、内面に夜叉のような心を隠していることが多い。この二面性は年中一緒に暮らしている家族の間では隠しようがないから、時折、家族の誰かが外に対してあまりにいいところを見せつけているのを見ると、うんざりしてしまう。そして、軽い肉親嫌悪を感じたりするのだ。

この肉親嫌悪が強くなるのは、反抗期に入った少年少女期であり、小学校の6年生といえば反抗期に入り始める時期だから、この投書の息子は今回の行動で母親の裏を見たような気持ちになって家出を考えるようになったのだった。

親の立場からすれば、反抗期の子どもたちには手を焼くけれども、これも人が成長して行くのに必須の過程なのである。親たるもの、時に自分の立場を離れて反抗期の子どもの気持ちになることも必要ではなかろうか。