甘口辛口

山本周五郎の「ながい坂」(1)

2013/8/28(水) 午前 9:29
山本周五郎の「ながい坂」

.このところ、消閑のための読み物として山本周五郎と藤沢周平の時代小説を読んでいる。先日、時代小説ばかり読んでいると、頭にカビが生えてくるような気がしたので、トマス・H・クックのミステリーも併せて読むことにした。だから、近頃は映画館で、三本立ての映画を見ているような心境になっている。

山本周五郎、藤沢周平、トマス・H・クックの三者を比較すると、物語作家としてのテクニックに一番長じているのは藤沢周平で、そのせいか周平作品が最も楽に読める。だが、読後の感銘の深さという点では、周平作品は周五郎やトマス・H・クックの作品に到底及ばないのである。

周五郎作品、周平作品と、トマス・H・クックの「緋色の記憶」というミステリーをくらべると、作品の感触が全く違う。

トマス・H・クックのミステリーは、アメリカの田舎町で起きた悲劇をテーマにしている。その田舎町に私立学校があり、そこを舞台にして事件が起きるのだが、その事件について知るためには読者は作品の三分の二を読み続けなければならない。通例、ミステリは先ず殺人事件が起こり、その具体的な描写があって、その後から事件の背景や真相が語られることになる。だが、この作品の作者は、最初から事件が学校と町を揺るがすような大きなものだったと繰り返し予告するだけなのだ。読者の期待と好奇心をさんざん煽っておきながら、肝心の事件そのものについて説明しないで、話を周辺部からゆるゆると進行させる──。

事件の語り手は、私立校校長の息子ヘンリーで、話はこのヘンリー少年が父親と一緒に新任女教師を迎えに行くところから始まる。赴任してきた女教師は知性と美貌を兼ね備えた希有な女性だった。だから、ヘンリー少年は直ぐに彼女に夢中になる。しかし、まだほんの少年だったヘンリーは、その新任女教師が着任後すぐに同僚のラテン語教師と恋に落ちて行くのを黙って見守っているしかなかった・・・・

「緋色の記憶」が読者に与える感銘は、山本周五郎作品が日本の読者に与える感銘とは異なる。周五郎作品をはじめとする時代小説は、酷評すれば成人向けのお伽噺みたいなものだから、戦国時代・江戸時代に材を取って実際にはあり得ない「虚の世界」を仮構し、そこへ現代人的意識を持った武士や町人を次々に投入する。そのことで、作者は読者をして過去の時代に生きているような疑似感覚へと導いて行くのだ。

だが、トマス・H・クックは、「実の世界」に生きる現代人の中に平凡な市民とは異なる個性的な人物を投入する。そのことで読者は現代社会のなかに潜む特異な世界に生きているという錯覚を与えられ、薄ら寒い戦慄や恐怖を味わうことになる。従って読後の感銘は、トマス・H・クックの作品の方が長時間持続する。

さて、山本周五郎の作品だが、技巧において藤澤周平に及ばず、感銘においてトマス・H・クックに劣るものの、両者にはない変な魅力があるのだ。

(つづく)