甘口辛口

藤沢周平の「小川の辺」(2)

2013/10/14(月) 午後 11:38
藤沢周平の「小川の辺」(2)

山本周五郎や藤沢周平の時代小説が好まれるのは、登場人物が現代人と変わらない生活感覚で行動するからだ。だが、山本と藤澤では、登場人物の意識内容が微妙に異なっている。山本作品の登場人物を動かしているのが道義性であるのに対し、藤澤作品の人物は各自が持って生まれた個性によって動くのである。

「小川の辺」に登場する女たちはいずれも個性的で、彼女らは恐れることなく自我を押し通す。朔之助の母親は子供の育て方が間違っていたと夫を責めたてるし、朔之助の妹は兄の命令をことごとくはねつけ、使用人の新蔵のいうことだけに耳を傾ける。

妹の田鶴は、増水した川で溺れそうになっても、助けようとした朔之助を、「お兄さまはいや」と拒否してしまう。私は、こういう危急な状況で、こんな言葉を口にする女を描いた作品を読んだことがない。田鶴は、また、佐久間が脱藩することをそそのかしている。場合によれば、佐久間が上意討ちにされる危険性のある脱藩を、田鶴は夫に勧めているのだ。

原作では、佐久間のもとに嫁ぐことになった田鶴が、肌もあらわに新蔵に挑む場面も描かれている。

それは、田鶴が嫁入る三日前のことだった。新蔵は屋敷の裏にある納屋で、板の間に筵を敷き、縄をなっていた。一心に仕事をしていたので、田鶴が入ってきたのに気づかなかった。納屋に入ってきた田鶴が入口の戸を閉めようとするのを見て、新蔵は強い言葉で田鶴をたしなめた。

「そんなことをしてはいけません」

新蔵はうろたえていた。成井家では、新蔵を家族同様に扱っている。新蔵もそのことに馴れ、剣術の稽古のとき、上達の早い田鶴に打ちこまれると、木刀を捨てて組みつき田鶴を投げ飛ばしたりしていた。しかし今は違う。嫁入り前の娘が、男と戸を閉ざした小屋の中にいたら、世間が何というか分からない。

「私は嫁になんか行きたくないのよ。でも、仕方がないの、新蔵の嫁にはなれないのだから」そういうと、田鶴は「お別れだから、私の身体を見て」といって素早く帯を解いたのだ。そして新蔵の手を掴んで自分の裸の胸に押し当てた・・・・
───新蔵が、上意討ちに出発する朔之助に自分も連れて行ってほしいと頼んだのはこうした過去があったからだった。彼は、主家の兄妹が決闘することを何としても防ぎたかったし、田鶴には是が非でも生きていて欲しかったのだ。

  映画化された「小川の辺」をみると、朔之助主従が佐久間夫婦を求めて旅をする場面が丁寧に描かれていた。インターネットで調べたら、この映画には青森県知事や市長や地元テレビのアナウンサーがエキストラとして出演している。映画の制作者は、彼らの出番を作るために、エキストラを道中で出会う旅人に仕立てて次々に登場させたのである。

新蔵が探し出した佐久間夫婦の住まいは、江戸に近い房州の、とある田舎にあった。新蔵はは何日も、小川の辺にあるその貧しい夫婦の住居を見張って、田鶴が定期的に家を留守にすることを探り出した。彼女は食料の買い出しのために、何日かすると町場に出かけるのである。

新蔵の報告を受けた朔之助は、田鶴が買い出しのために外出し、家を留守にしたときに佐久間を襲うことに決めた。そして戸外の空き地で長い斬り合いの後に、相手を討ち果たすことに成功する。佐久間の頭髪から証拠の毛髪を切り取り、懐紙に挟んでふところに納めてから、朔之助は新蔵に手伝わせて、遺体を家の中に運び入れる。

  (次に記すのは、ほぼ、原作からそのまま引用した文章である。これを読めば、藤沢周平の作家としての卓越した力量が判明する。私は、原作を読みながら、作者はど うやって作品を終結させる積もりだろうか気になっていた。田鶴のような女に幸福な結末を工夫してやるのは、容易なことではあるまいと考えたからだ。だが、作者は、彼女のために実に見事な終幕を用意してやっていた)

遺体を布団に寝かせて外に出ると、小川の向こうから田鶴が戻ってくるのが見えた。最初、いぶかしそうにこちらを見ていた田鶴は、やがて事態を察知したようだった。小川にかかっている橋を急いで渡ると、家の中に姿を消した。

田鶴が再び、家の中から出てきたとき、手に白刃を握っていた。朔之助に対して二間ほど距離を取って刀を構えた田鶴の顔は血の気を失い、眼が吊りあがって、悽愴な表情になっていた。

「佐久間の妻として、このまま見逃すことは出来ません。立ち合って頂きます」

「ばか者。刀を引っこめろ」と朔之助は怒鳴った、「上意だと知って佐久間は尋常に立ち会ったのだ。女子供が手出しすべきことじゃない」
「それは卑怯な言い方です。私がいれば、佐久間を討たせはしませんでした」
「強情をはるな。見苦しい女だ。勝負は終っていることがわからんのか」

朔之助は少しずつ後じさりし、間合をはずすと背を向けた。その背後に風が起こった。朔之助は辛うじて身体をかわしたが、左腕を浅く斬られていた。

「よさぬか、田鶴」

しりぞきながら、朔之助は叱咤した。朔之助は田鶴の執拗さに苛立ちはじめていた。だが、田鶴は半ば狂乱しているように見えた。眼を光らせ、気合いを発して遮二無二斬りこんでくる。田鶴の打ちこみは鋭く、朔之助は身をかわして逃げながら、避け損なって肩先や胸をかすられた。朔之助は小川の岸まで追いつめられる。

「おろか者がー」                        
     
朔之助は唸って、刀を抜いた。その一挙動の間に、すかさず打ち込んできた田鶴の切先に小指を斬られる。朔之助は反撃に移った。田鶴の打ちこみをびしびし弾ねかえし、道に押し戻した。兄妹相討つ異様な光景だった。

「若旦那さま。斬ってはなりませんぞ」

新蔵の叫ぶ声が聞こえた。切迫した声だった。
朔之助のすさまじい気合いがひびいた。田鶴の刀は巻き上げられて宙に飛び、次の瞬間、田鶴は川に落ちていた。

「おろかな女だ。水で頭でも冷やせ」
朔之助はそう言ってから、振り返って新蔵をみて、鋭く問いかけた。
          
「新蔵、それは何の真似だ」
                            
新蔵は脇差を抜いていた。朔之助に言われて、刀を鞘に納めたが、まだこわはった顔をしている。
──田鶴を倒したら、俺に斬りかかるつもりだったのだろうか。
と朔之助は思った。

朔之助は、「田鶴を引きあげてやれ」と新蔵に声をかけた。
        
田鶴は腰まで水に漬かったまま、岸の草に取りつき、顔を伏せてすすり泣いていた。悲痛な泣き声だった。新蔵がその前に膝を折って何か言うと、やがて田鶴が手をのばして、新蔵の手に縋りついた。新蔵が田鶴を抱き起こし、田鶴の顔をのぞき込むようにして何か話しかけている。二人の方が本物の兄妹のように見えた。

(二人は、このまま国に掃らない方がいいかも知れんな)

ふと、朔之助はそう思った。天神川で、田鶴が溺れかかったときのことがまた思い出された。田鶴のことは、やはり新蔵にまかせるしかないのだと思った。朔之助は新蔵を呼び寄せた。

「田鶴のことは、お前にまかせるぞ」
           
朔之助は、懐から財布を出して新蔵に渡した。

「俺はひと足先に帰る。お前たちは、ゆっくり、これからのことを相談するんだな。国へ帰るなり、江戸にとどまるなり、どちらでもよいぞ」

お前たちと言った言葉を、朔之助は少しも不自然に感じなかった・・・・・・・。