甘口辛口

高橋和巳の「悲の器」(1)

2013/10/30(水) 午後 4:13
高橋和巳の「悲の器」

これまで、山本周五郎全集と藤沢周平全集からそれぞれ一冊ずつ本を取り出して電子書籍化して来た。そして、それらを32インチのテレビモニターに映し出して、毎日のように読んでいたのである。だが、いかに老化が進んだからといっても、時代小説ばかりを読むことに飽きてきたので、先日、書架の前をめぐって、面白そうな本を探してみることにした。すると、身に覚えのない変な本が何冊も並んでいるのに気づいてびっくりしたのだった。

私は買い溜めた本を相当数所持しているので、書架には未だ読んでない本がたくさんある。いや、未だ読んでいない本の方が、圧倒的に多いといった方が正しいかもしれない。でも、今度見かけた本は、自分がこんな本を持っていたとは、夢にも思わないでいたというようなものだった。

  笹まくら(丸谷才一)
  湿原 上・下(加賀乙彦)
  邪宗門(高橋和巳)
  ・・・・・

私は上記の本を何時買ったのか全く覚えていないのである。とにかく不思議だった。時々、書庫を一巡する際、これらの本を眼で撫でていた筈だったのに、「見れども見ず」という操作が働いていたのか、自分がこれらの本を所持しているという事実に全く気付かずにいたのだ。

何はともあれ、上記の本を二階の自室に持って行って、調べてみた。

「邪宗門」には、本の中ほどに紙片が挟んである。すると、私はそこまでは読み進んでいたらしい。けれども、この本は二段組みの小さな活字で印刷されているため、多分、途中で眼が痛くなって読むのを中断してしまったのである。「笹まくら」と「湿原」は、かなり大きな活字で印刷されている。そこで、「湿原」の方をベットに仰臥して、書見器にかけて読んで見たら、ちゃんと読めるのである。近頃は、視力が衰えて大抵の単行本は読めなくなっているのに、この「湿原」はスラスラ読めるのだ。

(おや、おや、知らないでいる間に視力が回復してきたのかな)と思った。

急に元気が出てきて、インターネット古書店から河出書房新社刊行の「高橋和巳全集」20冊を注文することにした。もしかすると、高橋和巳の作品も電子書籍化するというような面倒な迂路を経ないでも、書見器で直接読めるかもしれないと思ったのだ。

しかし、書見器で読むことが出来るかどうかは、実際に本を手にしてテストしてみないと分からない。先頃、購入した正宗白鳥全集も三島由紀夫全集も、電子書籍化しなければ読めなかった。だから、視力が弱ってきた老人にとって、個人全集のような大部の本をインターネットで購入するのは、賭けをするようなものなのである。

にもかかわらず、私があえて高橋和巳の全集を注文する気になったのは、ある種の思い入れがあるためだった。高橋の「邪宗門」は、当時、定期購読していた「朝日ジャーナル」に連載されていたので興味を持って読んでいたが、作品中の登場人物が増えてきてストーリーを辿ることが困難になってきたので、後でまとめて読むことにして読むのを中断してしまっのだった。

「朝日ジャーナル」は創刊号から最終号まで保管してあったから、その気になれば「邪宗門」を何時でもまとめて読むことが出来た筈である。が、私はそうしないで単行本になった同書を書店から購入し、その半分までは読んだのであった。

その後、単行本で「悲の器」を読んだときには、一気に読み終わって読後に強い感銘を受けた。これを読んで初めて、高橋和巳という作家の本質が分かったような気がした。それで出世欲の強い後輩と酒を飲んだとき、しきりにこの本の話をして、一度これを読んでみるように勧めたのだった。

ところが、これも不思議な話だが、久しぶりに高橋和巳の著書を手にして「邪宗門」がどんな内容の作品だったか思い出そうとしたが、思い出せなかったのである。最後まで読むことをしなかったとはいうものの、「朝日ジャーナル」と今度発見した単行本とで、作品の半分までは二回も読んでいる。それなのに、ストーリーを皆目思い出せないとは、実に奇態なことだった。

それより、「悲の器」の内容を完全に忘れ去っている方がもっと不思議だった。私は先輩面をして後輩にこの本を読むことを強要しておきながら、まるで記憶を拭き消してしまったように何が書いてあったか思い出せないでいるのである。

今や私は、「邪宗門」「悲の器」の中身を思い出すためにも、「高橋和巳全集」を読まなければならないのだ。そうすれば、魔法をかけられたように、作品の中身を忘れてしまった理由も自ずと分かってくるかもしれない。
(つづく)