甘口辛口

妻が見た高橋和巳

2013/11/10(日) 午後 0:52
妻が見た高橋和巳

「悲の器」について、もう少し書くつもりだったが、長くなりすぎたのでこのへんで終わりにして、「高橋和巳の思い出」(高橋たか子)という本を紹介することにした。作家の妻が夫について書いた本は数多いけれども、高橋たか子の本は夏目漱石の妻鏡子が書いた「漱石の思い出」に匹敵するユニークな追憶記になっている。

夏目鏡子は夫を追憶しながら、漱石が一種の狂人だったと語り、高橋たか子もまた夫について、「主人は要するに自閉症の狂人であった」と書いている。たか子はこの衝撃的な一文の意味について、こう解説している。

<自閉症の子供は母親の愛情に反応せず、自分の欲求を母親に訴えることしかしない。他人の存在というものが意識されないのだ。黙りこんで一人で積木などして遊んでいるという。主人は閉ざされた宇宙のなかで観念の積木遊びをしていたのだ。一つ、二つ、三つ、と観念を積んでいき、黙々と、ただ一人で、積んでいく。・・・・短篇は向かないのだ。(長編にすれば)おびただしい積木を巨大な形に積みあげていくのに合っている>

高橋たか子の手記を読んでいると、彼女がこう書かざるを得なかった心境がよく分かるのだ。たか子は、夫が誇大妄想の自信家で、自分はいずれ作家になって大作を次々に発表する人間なると信じ切っていたという。だから、結婚した頃の彼は極端に貧乏だったにもかかわらず、自分で金を稼ごうとはしなかった。

ということになれば、京大仏文科を出たたか子が働くしかなかった。

<私は、英語や仏語の家庭教師をしたり外人観光客のガイドをしたり、暫く会社勤めをしたり経営関係の雑誌の翻訳をしたり、いろいろな手段で金を稼ぎ続けた。主人は(約4年間)一銭も金を稼がなかったが、そのことは大変徹底していた。自分は作家になるべき人間なのだからつまらぬことで金を稼ぐ理由はないと本当に思いこんでいたのたった>

たか子がしたのは、生活費を稼ぐことばかりではなかった。

彼女は夫が無名時代から、その原稿を清書してやっていたのである。ワープロもパソコンもない時代だったから、原稿はすべて原稿用紙に手書きしなければならなかった。無名作家が応募原稿を書く場合、悪筆だったら編集者に読んでもらえないかもしれないという懸念があったのだ。たか子は、自分が清書した原稿用紙の枚数は、合計すれば3.4千枚になるだろうといっている。

夫婦二人で買い物をして、重い荷をさげて坂を上がるようなときにも、荷物を持つのは妻の役目だった。

たか子はこんな話も書いている。
<或る日の夕方、家庭教師のアルバイトから月謝を三千円もらって家にもどってきた。他に金とてはなく、私はそれを主人と二人でささやかた楽しみに替えるつもりで、いそいそと帰宅したのだ。うす暗い部屋で小説(おそらく捨子物語)を書いていた主人は、飄然とした姿で立ちカがると、「温泉へいってくるわ」と言い、その月謝袋を自分のポケットにいれた。私は呆然として主人の顔をみつめた>

たか子は結局何も言わずに洗面道具をそろえ、夫に持たせて、玄関で見送ったのだが、こういうふうに自分のしたいことだけが頭にあって、妻の気持ちが全く見えていない高橋和巳を彼女は自閉症の狂人と呼んだのである。

一方、のちに女流作家になる高橋たか子も相当な自信家だった。たか子は自分が激励し続けなかったら夫は単なる読書家に終わったろうと言ったり、自分が原稿を清書してやりながら感想や助言を与えていたから初期の夫の作品は傑出していた、だが、彼女が眼を離して夫が一人歩きをするようになってからの作品は失敗作ばかりだと酷評している。

実際、その通りなのかもしれなかった。「高橋和巳の思い出」の最後の章は「臨床日記」になっていて、癌を病んだ夫をたか子が看護した日々のことが綴られている。そこに見られる高橋和巳は、子供のように妻に頼り切っている気弱な男なのである。この章でも、たか子は筆を曲げることなく、泣き虫になった夫を直截に描くのだ。

夫の体調が悪くなって入院したとき、妻であるたか子は担当医から高橋和巳が結腸ガンであることを打ち明けられた。この時の気持ちについても、たか子はあからさまにこう書くのである。

<この衝撃的な事実を自分の心にがっちり受けとめるまでは誰にも言うまい、と私は思い、二日間黙りこんだ。その沈黙の底から浮かびあがってきたのは、宿命という言葉であった。主人は癌で死ぬべき人なのだ。その性格からもその文学からも、そういう宿命が匂っている。二日間かかってそのように納得がいった後、極秘という約束でS氏(編集者)に知らせた>

たか子が描く病床の高橋和巳の言動と、同じく死を間近に控えていた頃の伊藤整のそれがあまりにもよく似ているので、薄気味悪くなった程だった。彼らは、自らの死期が迫っていても、そのことを度外視して、病気が治ったら田舎に引っ込んで昔風の大きな民家に住むことを夢見ている。仕事に追い回されていたこれまでの大都会の生活を放棄して、それとは全く逆な暮らしを夢見ているのである。

高橋和巳は妻に命じて何度も不動産屋を尋ねさせ、自分が夢見ているような家を探させている。そして気に入った家の話を聞くと、「繰り返しになってもいいから、また、あの家の話をしてくれと」と妻にせがむようになった。
新しい家に移ったら、縁側でひなたぼっこをしたいとか、鎌倉の田舎道をとぼとぼ歩きたいとか、隠者ふうの生活への夢をしきりに語るようになる。だが、その頃には癌は肝臓に転移して、定期的に肝臓に溜まった液を抜き取らなければならないようになっていた。たか子を始め周囲のものは彼の病名を最後まで隠していた。だが、高橋和巳も自分の死期が迫っていることを次第に予感するようになる。

ある日、彼は妻と二人だけになったとき、「ゆうべはよう眠れなんだ。いろんなことを考えて泣いていた」と打ち明けている。たか子は、夫が急速に弱ってきたことを感じる。肝臓から液を抜くときなど、付き添っている妻の手をしっかり握りしめているようになったし、釣りの本を読むときなど、たか子が一緒に本を覗き込んでいてやると嬉しそうな顔をするようになった。

「治ったら何も仕事はせんと、釣りに行ったり・・・・治ったら・・・・治ったら」と夫が喘ぐような声で呟いたとき、たか子は夫が死の恐怖にとらわれていることを悟った。一日の看護を終えて、たか子が予約している近くのホテルに帰ろうとすると、高橋和巳は「明日は早う来て、何にも用事がのうても、ここにいてな」と頼むのだった。

やがて夫が、「しんどい、しんどい」というようになった。たか子が、「しんどいのね」といって手を取ってやると、相手は妻の手を指で何度もさすって泣いている。別の日には、「もう治らんようになっているかもしれへん」と呟いて泣き続けた。

伊藤整も妻の前で、「オレは馬鹿だった」と自分を叱咤したり、自らの死生観を妻に語ったりして涙を流している。担当医はこういう患者の意識水準を低下させるためにモルヒネを増投して、徐々に死へ導いて行くのである。こうした処置を受けて、高橋和巳は、39才の若さで死去している。

さて、妻の高橋たか子は、夫のパーソナリティーをどう見ていたろうか。
(つづく)