甘口辛口

下僕根性を捨ててニヒリストへ(1)

2014/1/13(月) 午後 0:08
下僕根性を捨ててニヒリストへ

とにかく、敗戦前後の日本人は権力の前で、下僕として生きるしかなっかったのである。戦争が始まる前に日本人の頭に刷り込まれたのは、「鬼畜米英」のスローガンであり、「大東亜共栄圏の建設」という高遠な理想だった。それが敗戦は必至という状況になると、「一億玉砕」というスローガンに変わり、降伏すると一転して「一億総懺悔」という合い言葉になったのだ。

日本人は権力者から鼻面を掴んで右へ左への引き回され、最後は、戦争を始めたのは国民だった、だから、日本人はこぞって懺悔しなければならないということにされてしまったのである。

愚老は戦争末期に文部省直轄といってもいい学校に学んでいた(学長は元文部次官)。そこで受けた倫理学の講義は「随順の倫理」と称するもので、「おおみこころ」に従うことがなぜ「善」であるのか、その思想的根拠を明らかにするという講義だった。あまりバカバカしいので、愚老はテキストに指定された本も買わなかったし、提出するレポートも適当にお茶を濁しておいた。そしたら、この講義を担当していた若い助教授から私宅に呼び出され、「君の考えていることを聞かせてくれないかな」と問われることになった。

戦争が終わったけれども、この状態は少しも変わらなかった。労働組合が結成され、農地改革も実行されたが、権力に逆らわず、多数派に迎合する日本人の内面的な姿勢はほとんど変わらなかったのだ。満員電車に詰め込まれた乗客がトラブルなく目的地に着くためには、ただ静かにしているしかないようなものだった。この山だらけの島国に過密状態で押し込まれた日本人は、不満があっても我慢して長いものに巻かれ続けるという習性を守るしかなかったのだ。

敗戦という過酷な試練を与えられても、日本人は近代国家ではとっくに消滅している筈の不合理な制度や習慣を温存し続けた。日本が戦争を始めたのも、降伏したのも、「聖断」によったのだから、形式上の戦争責任は天皇にあるはずだったが、責任は国民全体にあるとされ、天皇制は廃止されないばかりか、最大の責任者である昭和天皇は退位すらしなかった。

昭和天皇は、プライドを捨てて一度、二度と連合軍最高司令官マッカーサーへの表敬訪問を繰り返し、終いには皇后にも表敬訪問をさせようとして、相手側から断られている。当時、こうした天皇の「卑屈な行動」を批判するマスコミは一つもなかった。

同じような事情はさまざまな集団の内部にも存在した。独裁的な権力を握り、周辺の者たちに畏怖されているボスは、「天皇」と呼ばれ(黒澤明監督は「黒沢天皇」と呼ばれていた)、致命的な非違があってもあからさまに批判されることなく過ごすことができた。日本という国は、権力者にとって天国のように居心地のいい国だったのである。

強者の前で口を閉じる日本人は、不合理な慣習に対しても口を閉じ、守旧派と行動を共にすることで身の安全を図って来たのだった。一応の教育を受けた人間にとって、冠婚葬祭儀礼の過半は古くからの陋習と思われるのに、そう思いながら彼らは慣習に従って生き、その立場に立てば自らもその陋習の施行者になるのだった。

しかし、すべての日本人が習俗に屈服していたわけではない。理性的に生きることを信条にしている合理主義者や、独自の世界観・信仰を持つものの中には、あえて権力や社会的慣習に逆らって行動するものもいた。日本では、この面々が社会によってニヒリストとして記銘され、本人自身もニヒリストと自認するようになった。

日本でニヒリストと呼ばれるような人間は、欧米ではリベラル(和製英語ではリベラリスト)と呼ばれ、かなり分厚い社会階層を形成している。従って先進国のリベラルは社会的孤立を感じることなく、随時、組織を形成して集団的に行動することもできた(例えばベトナム戦争反対運動)。アメリカでは、リベラリストが守旧派によって憎まれ、日本における共産党員のような扱いを受けているという記事を読んだことがあるけれども、とはいっても彼らが社会的な差別を受けているようなことはなかった。

日本では、現体制を内心で否認し「隠れキリシタン」のようにして暮らしているものも含めて、ニヒリストあるいはリベラリストの数は圧倒的に少ない。そのため、孤立分散している彼らは、組織を作って闘う代わりに、個人プレーによって鬱を発散するしかなくなる。かくて日本型のニヒリストは、反骨型になるか乞食型になるかのいずれかを選ぶことになるのである。

(つづく)