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やっぱり、トルストイ(1)

2014/2/14(金) 午前 6:43
やっぱり、トルストイ

ドストエフスキーの文学が青春の文学だとしたら、トルストイの文学は成年の文学ではなかろうか。

学生時代に郷里に帰省すると、図書館からドストエフスキー全集を借りてきて、朝から夜まで読んでいた。読み始めると、まるで魔術にかかったように本から目が離せなくなり、食事時に階下に降りるほかは、ずっと二階の自室に籠もってドストエフスキーだけを読んでいた。

すると、自分がロシアにいるのか日本にいるのか分からなくなり、背後の襖を開けてカラマーゾフ兄弟の一人が部屋に入ってくるような気がしたものだった。ドストエフスキーの本には、若者をとらえて離さない魔力のようなものがあるのだ。

愚老は、それ以前にはトルストイ全集を読んでいたのである。

自宅には仮綴じ本のトルストイ全集があって、旧制中学時代の4年生頃に、これに目をつけ、「戦争と平和」も「アンナ・カレーニナ」もこの全集で読んでいたのだ。今から考えると、この全集はロシア語の原本から訳したものではなく、英訳された本から大学の英文科学生や無名作家らが手分けで重訳したものらしかった。「戦争と平和」などは10冊前後の分冊になっていた。それらは、ページが裁断されていないので、ナイフでページをいちいち切り離しながら読んで行かねばならなかった。

文学に無関心だった父親が、こうした奇妙な全集を購入したのには、理由があったのである。

大正末期から昭和の初めにかけて、長野県の教育界に「白樺」ブームが起きていたのだ。特に、小学校の教師らは、「白樺」同人の著作を読んで、自由主義教育を推進していたのであった。小学校教員をしていた父も、時流に取り残されることを気にして、トルストイ全集を購入する気になったのである。だが、その全集がページを切り離されることなく書架に並んでいたところを見ると、結局父はトルストイ全集を一ページも読むことなく終わったのであった。

そんなわけで愚老は、ドストエフスキーを読むまでは、トルストイを世界最高の作家だと思っていたのである。何しろ、「戦争と平和」は凄い作品だった。まるで、満々と水をたたえた大河が、ゆっくり平野を割り開いて流れるような壮大な作品だったのだ。

だが、渦巻く怒濤のように力強いドストエフスキーの作品に比べると、トルストイの「戦争と平和」も色あせて見えてきた。そのため、かなり長い間、トルストイの作品には手を触れないでいたのだったが、その愚老がトルストイを再評価するようになったのは、30才を超えてからだった。

その頃、日本の高度経済成長期は終焉に近づきつつあった。

好景気に浮かれていた日本人は、不況になって初めて自分自身を見直すようになり、企業を途中退職して自給自足の生活に入るインテリやら、志を同じくする家族が集まって共同生活をするコンミューンが現れはじめた。NHKテレビの教養放送は、そうした彼らの日常を描いた番組を頻繁に流すようになり、鶴見俊輔が主宰する「思想の科学」誌も、これらのコンミューンや個人に関するルポルタージュを毎号のように掲載するようになっていた。

それらを見聞きしているうちに、経済至上主義に抵抗して独自の生き方を模索する個人や集団には、共通する特色があるように思われてきた。安定した生活を捨て、あえて労働と思索の生活を選んだ人々の多くは、トルストイの影響を受けていたのである。

思い起こしてみれば、武者小路実篤が宮崎県木城町に開いた「新しき村」もトルストイの影響下に発足したコンミューンだった。当時の武者小路は、カタカナの「ト」という文字を見ただけで身体が震えてくるほど熱烈なトルストイ信者だったのである。あの頃の日本人を蘇生させる力を持った思想は、仏教でもなくキリスト教でもなく、ロシアの作家トルストイだったのだ。

そして、当時、30代に入っていた愚老もいつの間にか好みが変わり、ドストエフスキーよりもトルストイに親近感を持つようになっていた。そして、ドストエフスキー作品に出てくる特異な登場人物たちよりも、「戦争と平和」に出てくるプラトン・カラターエフや「アンナ・カレーニナ」に登場するレーヴィンを愛するようになっていたのであった。
(つづく)