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やっぱり、トルストイ(3)

2014/2/21(金) 午後 9:00
やっぱり、トルストイ(3)

「トルストイの大地」というテレビ番組にチャンネルを合わせたら、ロシアに出かけた辻井喬が登場してトルストイアンの開いたコミューンを歴訪する長い旅を続けていた。

辻井喬はよく知られているように、西武グループの総帥堤康次郎の次男で、西武百貨店、西武ストアの社長をしていた。そうした恵まれた立場にある人物が、トルストイに惹かれ、ロシア国内を3万5000キロも旅して、トルストイがロシアの地に何を残したか探る旅を続けたのである。

それはまさに、「巡礼」と呼ぶに相応しい旅だったが、恵まれた階層の人間がトルストイに惹かれて、その跡を追おうとするのは辻井喬が初めてではない。「白樺」グループの作家たちは、特権階級の子弟が集まる学習院出身者による同人誌だったし、そもそもトルストイ自身が広大な領地を相続した貴族だったのである。

トルストイは、自分が恵まれた階層の子として生まれたことに負い目を感じ、生涯、農奴解放運動を続けている。そして、自らも一介の農夫として大地を耕す生活を始めている。この嘘も気取りもない愚直な生き方が、世界各地の心ある若者たちを捉えたのであった。

トルストイは、やがてツアーリズムと結びついたロシア正教会や国家を敵として戦うようになった。そのためトルストイの著書は発禁になり、ロシア国内の読者たちは外国で印刷され出版されたトルストイの本を、自国に輸入して読まなければならなくなった。

やがて、ロシアのあちこちにトルストイの思想を基盤にするコミューンが生まれ始めた。このコミューンに参加するのに特別な資格は必要なかった。

国家と教会を否定し、酒・たばこ・肉食を止め、土の上で労働する者なら、誰でも集団に参加できたのだ。この集団には、指導者という者がいなかった。必要があれば、リーダーは、くじ引きで決めた。

トルストイは絶対平和主義を守り、聖書の中の「汝、殺すなかれ」を信条にしていたから、コミューン内の若者から兵役を拒否するものが相次いだ。最後まで銃を取ることを拒否した者は銃殺されたが、それでも銃を取るよりも射殺されることを選ぶ青年たちが続出した。

ロシアには、トルストイアンによるコミューン以外にも、これと似たような考え方をしているドゥホボール教徒によるコミューンがあった。彼らは地上の権威である皇帝や教会を否認し、偶像崇拝を認めず、徹底して平和主義を守り、財産を共有にしていた。この教派に対する政府の弾圧が厳しくなったので、信徒らはカナダに亡命することを考えるようになった。

トルストイは、この教派を積極的に支援し、「復活」を出版して得た全収入を彼らにカンパしている。カナダに移住した数千人の信徒たちは、現地でよく働いたので裕福になり、それと同時に信仰を忘れ始めた。すると、亡命者たちの一部は、ロシアに戻ってトルストイ精神に基づく共同生活を再開している。辻井喬は「巡礼」の旅程のなかにこのコミューンを訪問することを加えている。

トルストイ精神に基づくコミューンは、スターリンが全国の農村を共同農場に編成する政策を打ち出したことで、公権力による迫害を受けることになった。コルホーズと呼ばれた大農場に組みこまれることに抵抗したコミューンの指導者は、兵役を拒否した背年たちと同様に容赦なく射殺されている。だが、それでもシベリアなどに、まだ、相当数のコミューンが残っているのである。

番組を見ていて、「これぞトルストイ」と思ったのは、彼の墓だった。草地の中に、高さ50センチほどの土がベット状の形に盛り上げてある。ただの土を積み上げただけだからその上には雑草が生えている。それだけなのである。世界一の文豪だというのに、そこには記念碑もなければ胸像もない。辻井喬はそこに持参した花束を捧げていたが、それも見ていて思い出したのは、人間にはどれだけの土地が必要かと題する彼の作品だった。

それは、少しでも広い土地を獲得しようとして、死にものぐるいの努力を続けて倒れた男が必要としたのは、その遺骸を葬るための身体の大きさの墓穴にすぎなかったという作品である。トルストイの遺族は、この作品を思い出して、ベットの大きさの土塊を積み上げ、墓にしたのではなかろうか。

前回も触れたけれたけれども、その作品を読んだことで個人の生活を一変させたり、各地に続々とコミューンを結成させたりするような影響力のある作家は、近代以降、トルストイ以外に見あたらない。

愚老は、「トルストイの大地」を見終わってから、今度こそは、ちゃんとしたトルストイ全集を購入しなければと思った。それで、河出書房新社版の全集を注文したら、それが現在手許に届いたところである。

日本にも、トルストイの影響を受けて戦時下に兵役を拒否した青年がいる。そのうちに、この人物のことを紹介しながら、併せてトルストイについてもう少し触れたいと考えている。