甘口辛口

トーマス・マンの「魔の山」

2014/3/26(水) 午後 8:12
トーマス・マンの「魔の山」

「好きな作家や思想家の全集を手に入れたい」−−-これが学生時代からの夢だった。

だが、学生の身分では、その願いは到底かなえられない。就職して余裕が出来たので多少蔵書が増えたものの、直ぐ長い療養生活に入ったため、全集を購入するどころの話ではなくなった。肺切除の手術をして、ようやく30才をかなり過ぎて復職したが、教師としての経験年数が僅かしかなかったため、給与は新卒の教員並みの額だった。

そんなことで、愚老が好きな本を自由に買えるようになったのは40代の後半頃からだ。以来、書店から新本を購入し、行きつけの古書店に出かけて古本を段ボール箱で買ってくることも出来るようになったのである。しかし、ドストエフスキー全集をまとめて購入してその高価なことに驚き、伊藤整全集を注文しようとして、その一冊ずつの単価の予想以上の高さに呆れているうちに、全集を購入する意欲は次第に薄くなっていったのであった。

その欲望が再び目覚めたのは、退職後インターネット古書店の販売目録を眺めていたときだった。これまで手が出なかった伊藤整全集が、びっくりするほどの安さで売られていたのである。無論、すぐさま注文した。

これが、手始めだった。これまで機会があったら読んでみたいなと思っていた広津和郎・深沢七郎・安岡章太郎などの全集を矢継ぎ早に注文した結果、段ボール箱に入った20冊〜30冊前後の本が全国各地の古書店から続々と送られてくることになったのだ。

50冊以上ある松本清張全集が届いたときには、さすがの家内も渋い顔になった。そこで、こちらも説得を試みることになる。

「読みたいと願っていた本を、死ぬ前に読んでおこうと考えるのは当然じゃないか。それをしなかったら、この世に未練を残して死ぬことになるよ」

これが馬齢を重ねたことによる効果なのである。言い争っていて愚老が死ぬ年齢になっている事実を持ち出すと、大抵のことは思い通りになるのだ。こうして屁理屈を並べて無理を通しているうちに、書庫も満杯になり、本は他の部屋にも溢れ出るようになった。愚老の寝室などは、読みかけの本が山積みになり、今にも崩れんばかりになっている。

日夜それを眺めていると、自分でも、(これは不味いな)と思うようになった。愚老の存命期間は、あと僅かなのだから全集を注文しても、到着した本を一ページも読まないうちにお陀仏になる公算が高い。だから、愚老は、先般、トルストイ全集を注文するときに、全集を購入するのはこれで打ち止めにしようと心密かに考えたのだ。ところが、簡単に全集と縁が切れるようには、なっていなかったのである。

手に入れたい本があって、インターネットで調べているうちに、販売目録の中に「トーマス・マン全集」が載っていることに気がついたのだ。

(おお、トーマス・マン! 「魔の山」のトーマス・マン!)

自分でも、胸の鼓動が少し早くなったような気がした。

・・・・あれは東京から引き揚げて自宅療養に入った頃だった。当時、通院していた伊那市の医院に出かけたついでに古本屋に立ち寄ったら、トーマス・マンの「魔の山」が棚に並んでいた。これはドイツの現代文学を代表する傑作だと以前から聞いていたので、二冊続きのその本を買って帰宅し、読んでみた。すると、怪奇小説だと思っていたその本は、スイスの結核療養所に入院している青年ハンス・カストルプを主人公にする教養小説だったのである。

この長大な小説は淡々と進行して、ドストエフスキーの作品が主題にしているような悲劇的な事件は一向に起こらない。けれども、若かりし日の愚老には、なぜかドストエフスキーの作品にも増してこの作品が面白く読めたのである。主人公のハンス・カストルプは、何の取り柄もない平凡な青年だったが、そのために読み始めて暫くすると、自分と彼を同一視することが可能になり、本から目が離せなくなったのだ。

愚老はやがて東京の結核療養所に入所して手術を受けることになったが、隣のベットに40格好の大学出の患者がいて、彼のところに同じ大学出の中年患者がよく遊びに来ていた。ある日、彼らの会話を聞くともなしに聞いていると、二人は「魔の山」について話し合っている。察するに、彼らは「魔の山」を読んで共に興味を感じ、折に触れてこの作品を話題にしているふうだった。

(「魔の山」は青春小説だと思っていたが、こんな中年男にとっても興味があるんだな)

と、改めてトーマス・マンを見直すような気持ちになった。それで、療養所を退所後に彼の作品を探して読むようになったのである。「トニオ・クレーゲル」も面白かったし、「大公殿下」はもっと面白かった。だが、読み進んで、「ファウスト博士」や「ヨゼフとその兄弟たち」になるとパタッと先へ進めなくなった。こちらの教養不足が原因になって、作品の中に入り込んで行けなくなったのである。

だが、長い中断時期を経て、「トーマス・マン全集」という文字を目にするや否や、胸が躍るのを禁じ得なかったのだ。愚老の青春時代は、前半にトルストイ・ドストエフスキーによって影響され、後半はトーマス・マンのリベラリズムによって支えられていたのであった。トーマス・マンは自分にとって師父の一人だったのだ。これでは、どうしても「トーマス・マン全集」を購入しないわけにはいかない。全集の中にある他の作品が抵抗があって読めなかったとしても、「魔の山」を読み返すだけでも、全集を手に入れる価値があるではないか(愚老が購入した二巻ものの「魔の山」は紛失してしまっていた)。

かくて、「今度こそ、全集を購入すのは、これで最後にしよう」と心に決めて発注した「トーマス・マン全集」が届いたのは、一週間ほど前のことだった。その本が詰まった段ボール箱を二階まで運び上げてくれた家内が、「こんなに本ばかり買っていると、家が重みでつぶれてしまうよ」というような苦情を口にしたが、愚老は聞こえなかったふりをしていた。相手に反論するよりも、先方の言葉が聞こえなかったふりをする方が戦術として高等なのである。

箱を開いて、一冊ずつ内容を調べてみる。二巻目に「大公殿下」と「ワイマルのロッテ」が載っている。「ワイマルのロッテ」は、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」にヒントを得た作品のような気がするが、自信はない。愚老は実は「若きウェルテルの悩み」があまりに大衆人気が高いので、一種の反発もあって、これまでこの青春小説を読まずに来ていたのだ。もし、推察するとおりなら、「ワイマルのロッテ」を読む前に、「若きウェルテルの悩み」を読んでおかねばなるまい。

そう言えば、ゲーテの作品を自分はほとんど読んでいない。「親和力」には、読んでから大いに感心したにもかかわらず、それ以外の著作に触れることなく過ぎてきたのだ。この際、思い切ってゲーテ全集を購入して、「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」なども読み、マンの「魔の山」と比較してみるのも一興ではないか。

ということで、実は先刻、「ゲーテ全集」を注文したばかりなのだ。どうやら全集購入の悪癖は死の直前までつづきそうである。

  ちなみに、愚老の購入した全集(購入予定の全集)の価格を記せば次の通り
     トーマス・マン全集(全13巻) 2万8000円
     ゲーテ全集(全12巻)     1万2000円