甘口辛口

川崎長太郎と良寛(4)

2014/5/30(金) 午前 11:50
川崎長太郎と良寛(4)

良寛は貞心尼と和歌を通して師弟の関係になり、互いに作品を交換することで愛情を深めていった。彼はたびたび魅惑的な歌を利用して貞心尼を自庵に呼び寄せる一方で、自分に対する貞心尼の愛が強くなりすぎると感じると、自制を促す歌を詠んで相手の気持ちを落ち着かせている。

こういう良寛に比べると、女性に対する川崎長太郎の態度は、粗暴だった。作家になることを目指して東京に乗り込んだ川崎は、カフェ勤めの女と知り合って、米屋の二階で最初の結婚生活を始めている。だが、作家としても何時までたっても芽が出ないし、勤め先の小さな通信社から得る月給は僅か30円だったから、彼は東京での生活を諦めて、故郷の小田原に引き揚げることにした。

ここで彼が取った行動は、いかにも川崎長太郎らしかった。彼は同棲相手の女を米屋の二階に置き去りにして、独りだけで帰郷してしまうのだ。

川崎に残酷な形ですてられた女の方の所業も、尋常ではなかった。

彼女も東京を捨てて京都に移り住み、その地でカフェの女給になった。そして、客の町医者とねんごろな関係になると、彼女は妻を追い出させて、その後釜に納まるのである。そんな荒療治で医者の妻になったにもかかわらず、彼女は7,8年すると、医者の家を飛び出し但馬のトラック運転手の女房になるのだ。それから5年して、ある日、偶然、川崎の小説が雑誌に載っているのを見た彼女は、直ぐさま連絡を取って、最初の男である川崎の元に押しかけてくる。川崎長太郎は、17年ぶりに再会した相手と数日間伊豆の温泉地を転々と旅している。

川崎長太郎の物置小屋にやってくるのは、昔の妻だけではなかった。川崎の作品を読んださまざまの女たちが、次から次へと彼を訪ねてやってくるのである。そうした女たちの一人と川崎は結婚することになるのだが、そのいきさつは「結婚」「七十才」という彼の作品にくわしく書かれている。その一部分を紹介しよう。

<千子は、大阪の産で、小川より三十とし下だ。二人きりの姉妹の長女として、両親に大事に甘やかされて成長し、サラリーマンの妻となってのち十年、名古屋、小倉、大阪と移住したところで、夫が急死する憂目をみた・・・・・子なしの若後家となった彼女は、銀行員にとついだ妹のアパートへ身をよせ、大阪駅近くに大きな食堂を経営する、叔母の店でレジーを半年ばかりしていた。

ずっととし下の、そんなに埃ッぽくもなく肌面もすさんでいない、どこか無垢な肌ざわり覚える若後家の魅力につかまり、娼婦や半玄人女より外、あまり知ることなく彷徨してきた彼が、一途に結婚に踏切ったと云い条、第一彼我の年齢のへだたりから、無理は百も承知であり、行けるところまで行ってみるしか術もないらしかった。思いは大体千子も同じで、結婚一年目にして、この分ならと、彼女は自分から入籍のことを持ち出したりした(「七十才」)>

「七十才」という作品では、千子との結婚はすらすらと進んだように見えるけれども、「結婚」を読めばそこまで辿りつくのは容易なことではなかったことが分かる。

千子(「結婚」ではP子となっている)は、ほかの女たちと同様に川崎の作品の愛読者という触れ込みで来訪してから、その後、続けさまに数回海岸の物置小屋を訪ねて来ている。その度に、川崎は彼女を案内して伊豆や信州の温泉宿に出かけ、同じ宿で2,3泊するのが例だった。だが、千子は自分の身体に指一本触れさせなかった。

そればかりか、二人は直ぐに喧嘩を始めるようになった。八ヶ岳山麓の宿屋に泊まったときなどは、怒り心頭に発した川崎は千子を宿に置き去りにして、まっすぐ小田原に舞い戻ってしまったほどだった。その翌日、川崎が行きつけの大衆食堂に行ってちらし丼振りを食べていると、その鼻先に彼を追いかけてきた千子があらわれて彼を驚かせたりした。

この時は、川崎長太郎はここで甘い顔を見せたら百年目と千子と縁を切るつもりで彼女を大阪に追い返したのだが、二ヶ月後には大阪からやってきた千子と簡単によりを戻している。そして川崎が結婚する意志を示し、自身の経済状態を洗いざらい打ち明けると、相手の最近作で大体川崎の懐具合の見当をつけていた千子は、初めて彼に身体を許すのである。

吹けば飛ぶような海岸のボロ家に住んでいるが、川崎は人気作家時代に転がり込んできた原稿料や印税をそのまま貯金に回し、その利子が年々十数万円入って来ていたのだ。

川崎との結婚を望んでいる女は、他にもいた。彼が毎日ちらし丼を食べに通っている食堂には5人の女中がいたが、その中のまだ20代の若い女中が向こうから、「お嫁さんになってあげようか」と囁いたことがあるし、川崎の愛読者であることを名乗る中年の女性の多くも、彼との結婚を望んで、その瀬踏みのために物置小屋に訪ねて来ていたのであった。

女たちが川崎との結婚を望んでいるのは、彼が作家という肩書きを持っていたり、そこそこの収入があるためばかりではなかった。川崎長太郎には、ニヒリスト特有の開いた人間性があり、自分の恥も欠点も平然と公開すると同時に、他者の過去を問わない包容力も持っていたから、彼女らはそこに惹き付けられたのだ。

ある日、二人で近所を散歩した帰りだった。二人が家へ戻ると、間もなく日が暮れた。千子は、暑い中を歩いて疲れたと言って、ぶすっとした面持ちで足を投げ出して座っていた。川崎も部屋のまん中に腹ン這いとなり、文芸雑誌を読み始めた。

途中で雑誌を読むのを止めて、川崎は千子の方に顔を向けた。記事の中に彼の知らない言葉が出てきたからだった。

「ポーカー・フェースって、何んのことだね」

川崎長太郎は小田原中学に入学した早々に、図書館の本のページをむしり取ったために放校になり、その後の学歴がないのだった。千子は素っ気なく一言で答えた。

「読んで字の如しよ」

満面に侮蔑の表情を浮かべて質問に答えようとしない千子に、川崎は格別腹を立てなかった。以前はこうした高慢な女の所作に怒りを感じて喧嘩になったものだが、彼は次第に自分の欠点を許すように伴侶の欠点も許すようになっていたのである。

──良寛と川崎長太郎は、外形的には酷似した人生行路を歩んでいるものの、その人柄には雲泥の差があるように見えた。だが、両者の生きる姿勢がニヒリズムによって裏打ちされていた点は共通していたのであった、片や仏教的ニヒリズム、片やアナキズム的ニヒリズムだったけれども。