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漱石「こころ」再考

2014/9/16(火) 午後 0:35
漱石「こころ」再考

テレビで放映していた<漱石「こころ」100年の秘密>という番組を見た。学者や評論家や作家が集まっての座談会で、それぞれが異なる意見を出し合ったため、座談会が終わるまでに「こころ」に関する視点が出尽くしたという感じだった。

実のところ、「こころ」に対する私の評価は、はじめて読んだ旧制中学時代が最高で、その後は下降して行く一方だったのである。中学生だった頃は人間不信に自己不信が重なり、自ら死を選んだ「先生」の行動に感動して、この世は生きるに値しないし、この自分自身も汚れきっている、先生のように自分も自死すべきだと思ったほどだった。若い魂を死に誘うような魅力を持った作品が「こころ」だったのである。

だが、20代になって「こころ」を読んでみると、なんだか変だった。

先生が人間不信に陥ったのは、後見人の叔父に財産を奪われたからだというけれど、それでも先生の手元には一生遊んで暮らして行けるだけの財産が残っていたのだ。彼は結婚後も、どこにも就職せず、「高等遊民」として暮らしている。そんな立場にいながら、妙に金にこだわり、自宅に訪ねてくる若者が帰省するときにも、父親が病床にあるなら、貰うべきものを貰うように、今から、ちゃんと手を打っておきなさいと忠告している。

先生が自己不信に陥ったのは、友人のKを自殺に追いやったと思いこんだからだった。が、Kはそれ以前からずっと自殺念慮にとりつかれていた。彼は養家の期待を裏切って大学での専攻を医科から文科に変更し、送金を断たれている。そうなったら「苦学生」になってアルバイトをしながら大学に通うべきところを、友人の好意に甘えて居心地のいい素人下宿に転がり込み、そこのお嬢さんに恋慕してしまう。普段から、向上心のない人間は馬鹿だと豪語していながら女性に惹かれ、世話になっている友人がお嬢さんを愛していることにも気がつかなかった・・・・・

Kは、「自分のような人間には、先の見込みがない」と遺書を残して死んでいる。事実はその通りだったし、本人もそれを十分に自覚した上での行動だったのに、先生は事実誤認をして、Kの自殺について過剰な責任を感じてしまったのである。

「こころ」を読み返して、なんだか変だぞと思うようになってから、いろいろなことがあった。著名な評論家K氏の子息は、まだ、少年の身で「こころ」を読んだ直後に自殺している。このことを知って、ひどくいやな気がした。中学生の頃、自分も「こころ」を読んで自殺を思ったことを想起したからだった。

市川コン監督の映画「こころ」を映画館で見た時には、強い印象を受けた。そのことについて記した過去ログがあるのでここに再録してみよう。先生の遺書を読んで「私」が先生宅に駆けつける場面を取り上げたタブログである。

<「私」が東京にある「先生」の家に駆けつけ、塀に取り付けた簡単な門をくぐって玄関の前に立つと、そこには「忌中」の張り紙が出ている。先生は自殺を決行したのだ。「私」が茫然と立っていると、家の中から喪服を着た奥さんが出てくる。「私」はその場にへなへなと座り込んでしまう。奥さんは「私」と言葉を交わす前に、開け放たれたままになっている門の方に進み寄って、目透き戸を閉める。

この時、カメラは門の外に移動する。そして閉じられていく戸が奥さんとその向こうに座り込んでいる「私」の姿も隠してしまうところを映し出すのだ。ここから先は、介入禁止とでもいうように、戸によって悲劇の家が隠される・・・・。

映画はそこで終わるのだが、観客は胸にこみ上げてくる疑問を押さえることが出来なくなる・・・・・先生に自殺されて、残された奥さんと「私」はどうなるだろうか、と。

漱石は、「三四郎」を書いた後で「それから」を書き、なお気持ちが落ち着かないので「門」を書いて、三部作となる連作を完成した。「心」の場合は、先生の自殺によって作品を完結させているので、漱石としては心に残ることはなかったにちがいない。しかし、映画を見終わった観客や原作を読んだ読者には、「私」と奥さんのその後がどうなるのか、妙に気になるのである。市川 崑監督も二人のその後に興味を抱きながら、詮索する気持ちを自ら禁じるようにして、ああした幕切れにしたのではなかろうか>

愚老は、なにか釈然としないままで「こころ」のその後について次のようなストーリーを考えたのだ。

・・・・早くから、自分の死について考えていた先生は、自分が亡き後の妻の生活を心配していた。自分の遺産があるから、経済的には不安はないだろう。けれども、天涯孤独の身になった妻には誰か信頼できる相談相手が必要だ。

そう考えた先生には、妻の相談相手になってくれそうな人間は「私」しか思いつかなかったのだ。先生は、これまでも家を留守にするようなときには、「私」に自宅に来て妻を守ってくれるように依頼してきたが、自分が亡くなった後の妻についても,その保護者として「私」をあてにするしかなかったのだ。しかし、「私」をして妻が死ぬまで面倒を見させるようにするには、妻が「私」を養子にするか、あるいは妻が「私」を夫にするか、二つのうちのどちらかを選ぶしかない。

先生の見るところでは、「私」は妻に惹かれているようだし、妻も「私」が嫌いではないらしかった。妻は「私」より10歳近い年長だが、そんな事例は世間にはいくらでもあるし、第一、妻が「私」を養子にするよりは、この方がずっと自然だ。

先生が「私」だけに遺書を残して死んだのは、「私」との約束をはたすためだったが、同時に「私」と妻を結びつけるためだった。先生は、「私」にだけ秘密を打ち明けておけば、「私」が自分から無言の依頼を受けたように感じて、妻を放っておけなくなるだろうと読んだのだ。

しかし先生が読み損なったのは、「私」が本来、一歩下がって仕えるべき師の令閨を妻としたことに罪悪感を抱いていることだった。それに先生の遺書には、人を贖罪のための自死に誘う魔力のようなものがあった。このため「私」は、罪悪感からKと先生につづいて自殺を試みることになるのである。

結局、「私」の夫婦関係が安定したものになるには、夫婦の双方が亡くなった先生の影響下から離脱する必要があった。だから、、「こころ」に続く後日談が書かれるとしたら、それは亡き先生に対して「私」とその妻が、どのように戦い続けるか、その委細を綴ることになるのであった。