甘口辛口

アタラクシアへの道(1)

2014/9/26(金) 午後 8:25
アタラクシアへの道

先日、立花隆の臨死体験に関する放送をテレビで見ていたら、結論の部分で彼はこういう意味のことを言っていた。

「ギリシャの哲人エピクロスは、人生の目的はアタラクシアに到達することであると言っている。自分も今、アタラクシアの境地から死について眺めている」

立花隆は癌におかされ、身近に死を感じはじめている。それで死ぬ前に、懸案の臨死体験の問題を明らかにしようと、病を押して世界各国の一流の専門家を歴訪し、その研究成果を吸収してきたのだった。その結果、一応の結論に達したように思われたので、彼はそれをNHKテレビを通して世に訴える気持ちになったのである。ちなみに、「アタラクシア」とは、「こころの平安」という意味であり、彼がこの言葉をあえて使って自らの心境を語っているところを見ると、自分の得た結論に相当な自信を持っているようなのだ。

立花は、まず、人間の意識がいかにして生じるかを明らかする。

死に臨んだ患者が生き返って語る話に、意識が肉体から遊離して天井の片隅から病床にある自分を見下ろしていたというようなものがある。あるいは、気がついたら花の咲き乱れる楽園に出ていたというようなものもある。
生きるか死ぬかのピンチに陥ったときに、意識が肉体から抜け出ることが事実なら、その意識、あるいは心と呼ばれるものの正体は一体何なのか、問題を解くには、まず、このへんから始めなければならないのである。

立花が専門の学者から教えられた研究成果によると、こういうことになる。

意識の素材は感覚器官が脳にもたらす多様な印象や、記憶・思考などから成り立っているが、それらが蜘蛛の巣のように結びあい、絡まり合ったときに意識というものが出現する。だから、動物や昆虫も意識を持ち、機械も意識を持つ可能性がある。

とすれば、臨死状態にあって感覚器官も記憶も活動を停止しているときに見る自己の病床像や天国の花園像は、本来の意識がとらえた映像とはいえなくなる。それはニセの映像であり、大脳周縁部がとらえた幻影に過ぎない。つまり、それらは夢に他ならないのである。

愚老は、その昔、エピクロスの教説が当時信奉していた老子的人生観によく似ていたので、自分のことを「エピクロスの徒」と自称していたことがある。実際、エピクロスの語録は、老子の箴言にそっくりだった。

エピクロスは弟子たちに自然学について学ぶことを勧め、自然を征服するよりも自然に従って生きよと教えている。自然の法則に従って穏やかに生きる手法から、「隠れて生きよ」とか、「恋愛よりも友情を」というエピクロス学派の生活術が生まれてきたのである。

エピクロスは、この他にも「こころの平安」を保つための方法を弟子たちに伝授している。その方法の中核に据えられているのが、死の恐怖を克服する方法なのだが、これが立花隆の説に似ているのである。エピクロスと立花隆は、「死の不存在理論」を唱道しているのだ。

人間が人生について、そして死について思い描くイメージは、多くの感覚器官が受け取るイメージや刺激から成り立っている。死は、その感覚器官が分散し消滅することことを意味するのだから、死は誰の意識にも存在し得ないのだ。生きている人間にとって死は存在しないし、死んでゆく人間にとっても死は存在しないという「死の不存在理論」・・・・

しかし、そんな風なアクロバット式論理を展開するよりは、すべての個体は生まれ変わり、死に変わりして、有限の寿命しか持ち得ないという仏教の「色即是空」理論を受け入れた方が賢明ではなかろうか。この消滅変化の相は、天体でさえ例外ではありえない。星々は、いずれ爆発して粉々になり、やがて分散した物質が寄り集まって新しい星を作る。太陽は三代目の天体だと聞けば有為転変は宇宙の果てまで貫徹している冷厳な事実なのである。

臨死体験が否定され、「死ねば、天国に行って、懐かしい故人に再会できる」というのが空語にすぎないとしたら人はアタラクシアをもたらしてくれるような新たな死生観を思案しなければならない。その死生観とは、「事実唯真」に基づく死生観でなければならないのだが・・・・・・