甘口辛口

川上弘美の「水声」(1)

2015/1/4(日) 午後 7:06
 川上弘美の「水声」
 川上弘美の「水声」を読み終わった後で、これはずごい小説かも知れないぞと思った。いや、そうではない、彼女はすごい作家かも知れないと思ったのだ。
 愚老はこれまで、明晰な文章で新しい世界を切り開いてくれる著作家を愛していた。例えば、森鴎外であり、加藤周一だった。さもなければ、朝日新聞の家庭欄に掲載される「ひととき」の記事とその書き手である主婦たちを愛していた。この方は、ごく卑近な日常生活を題材に取り上げ、平易なやまと言葉で書かれいるけれども、男性である愚老らの硬化した情感を揺り動かすような内容をふくんでいる。 
 だが、川上弘美は平易な言葉で日常の些事を描いてはいるものの、そのテーマは姉・弟間の近親相姦なのである。そして、その文章も鴎外・加藤周一のそれとは全く相反する屈折した文体になっている。例えば、こんな文章である。
 <陵はママが好きではなかった。そして、陵ほどママが好きな人間は、ほかにいなかった。どちらも同じことだ>
 <その時から、わたしはまた奈穂子としばしば会うようになつた。奈穂子の笑顔は、まっしろい穴のよう美顔だ。よく光っているので、その穴の中に落ちこむことはないけれど、まちがって足をすべらさないとも限らない>
 「近親相姦」というテーマを扱っていても、読んでいてハラハラどきどきといった感じを受けることはほとんどない。この作品は姉弟のうちの姉の追憶記という形で書かれていて、時間的には弟が出産したときから姉弟が老年に至るまでの7,80年間の出来事が取り上げられている。
 姉は、病院で生まれた弟が母親に抱かれて帰宅したときの印象をこう記している。
 <陵は髪のはえそろつたあかんぼうだつた。その道立った髪は、まるで太い筆のようだつた。へんなかお。ママに抱かれて病院から帰ってきた陵に向かって、わたしは心の中でつぶやいた。わたしは、ただ陵を見つめていた。見つめている自分のことも、見つめながらその時感じていたことも、はつきりと覚えている。そんなはずはないと、ママが言うとしても、わたしはたしかに、強く感じていたのである。これが、わたしのおとうと、わたしのもの、と>
 ママがその日のことを記憶しているはずがないと娘に注意したのは、姉は弟より一歳年上の「年子」だったからだ。
 その二歳の幼児だった姉が、生まれたての弟を見て、「私の弟、私のもの」と感じたというのである。
 やがて弟が小学校に入学する年齢になる。姉は両親から弟の面倒をよく見てやるように命じられたから、先輩として弟の世話を焼くことになった。弟も放課後一人で帰らないで、姉が教室から解放されるのを校庭でまっている。こうして二人は弟が4年生になるまで、春夏秋冬を通して往復40分になる道を一緒に歩いていたのであった。
 こういう二人を学校の生徒たちは囃し立てたが、姉は平気だった。が、弟はこれを気にして4年生になった時に、別々に帰ることにしようと提案しその通りになる。しかし姉は一人で下校するようになっても、傍らに弟の気配を感じ続けていた。
 その頃から姉・弟は同じ家の中にいても互いの顔を正視しないようになった。いつも目をそらし合っていたのだ。そして大学を出ると、弟は会社員になって実家を離れ、その後を追うように姉も家を出てイラストレーターになる。
 世の中に出てから、姉はほかの男と同棲するし、弟にも恋人が出来て結婚しそうになる。そんなときに一家を束ねていた母が死ぬのである。それが機縁になって、姉と弟は再会し、相変わらず相手と目を合わせないようにしながら話し合って、二人して実家に戻ることをきめる。
 二人は家を出る前に男女の関係になっていたから、同時に実家に戻るということは近親相姦を重ねることを意味していた。母の死後、家を出て一人でマンション暮らしをしていた父にも同居を勧めたが、断られる。父は娘と息子がどういう関係にあるか知っていたのだ。
 同居するようになってから、弟は姉の部屋に移って夜を過ごすようになる。二つのシングルベッドをくっつけてダブルベッドのようにして一緒に寝るのである。そして、10年たち20年たち老年になっても夫婦同様の暮らしを続ける作者の川上弘美は、この姉弟を肯定的に描いているのだが、いかなる理由からだろうか。二人が、錠と鍵のようにぴったり合致する人間だったからなのだ。姉と弟は女の原型のような母から生まれ、アマゾンのようにしたたかな母に育てられ、ほぼ同型の人間になった。
 作者は、姉の口を借りて弟を次のような人間として描いている。<陵は、口数の少ない子供だった。
 そのかわりに目の光が強く、下からすくいあげるように見つめられると、陵
 の言葉にさからうことは、絶対にできなかった。けれどそう思っていたのは
 おそらくわたしばかりで、奈穂子は陵のことを平然と子供扱いした>
 姉も弟と同じような人間だったから、「陵がもう一人の自分のように思える」とか、「陵の足とわたしの足の区別がつかなくなってゆく。指も、腕も、脇腹も、背中も・・・・陵のものはすべてわたしのもので、わたしのものはすべて陵のもの」というような言葉が手記の中に次々にでてくるのだ。
 こういう関係になるとセックスも通常とは違った意味合いのものになる。(つづく)