甘口辛口

開国日本の評判(1)

2015/2/9(月) 午後 2:42
 開国日本の評判
 本の内容が意外に面白かったので、却って先へ進めなくなるということがある。まあ、そんな本は滅多にないけれども、
 
 「逝きし世の面影」(渡辺京二著)
 は、愚老にとって、まさにそのような本だった。何しろ604ページある本を読んでいて90ページまで来たら、もう先へ進めなくなってしまったのだ。
 90ページまで読んだところでは、この本は鎖国を解いて世界に門戸を開いた日本が、外国人の目にどう映ったかを記した本だった。著者がこの本を書くために参照した外国人による日本訪問記は数十冊に及んでいる。そして、それらから引用されている文章のことごとくが愚老をびっくりさせたのだ。
 19世紀になると、欧米諸国の間にオリエンタリズムが流行し、イスラム教諸国から始まって、インドやビルマ、そして中国を訪れる欧米人が増えた。ところが、当時、鎖国状態にあった日本は欧米人一般にとってアジアで唯一残された未知の国だったから、日本が開国するとその印象記や紹介本が続々と諸国で出版されることになったのだ。
 それらの本で描かれている日本は、ほとんどが「妖精の棲む小さくてかわいらしい不思議な国」になっていた。英国の詩人アーノルドは日本を「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ」と賞讃し、次のような賛美の言葉を連ねている。
 <その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、(日本人の)神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである>
 フランスの青年貴族リユドヴィク・ボーヴオワルにとっても、日本は妖精国風の小人国だった。
 <どの家も樅材でつくられ、ひと刷毛の塗料も塗られていない。感じ入るばかりに趣きがあり、繊細で清潔かつ簡素で、本物の宝石、おもちゃ、小人国のスイス風牧人小屋である。……日が暮れてすべてが閉ざされ、白一色の小店の中に、色さまざまな縞模様の提灯が柔らかな光を投げる時には、魔法のランプの前に立つ思いがする・・・・街を行く「殿様」の姿を見ると、その腰にはあらゆる異様な小道具がぶら下っている。火打石、ほくち、煙管などの「喫煙用の複雑な道具」で、煙管の火皿は娘の指ぬきの半分ぐらい、「模造皮の煙草入れは、ほれぼれするような可愛い青銅製金具で閉じられる>
 ボーヴオワルは、当時西洋人が必ず案内された梅屋敷を見物して、「まさに地上における最も奇妙な庭園で、望遠鏡を逆にして高い所から眺めた妖精の園」としかいいようがないと言っている。
 愚老は、学生時代にアメリカ占領軍の兵舎?でアルバイトをしている級友が拾ってきた女兵士の手紙を読んだことがある。それは彼女が日本人邸宅の庭園で開かれたパーティーに出席した印象を友人に知らせる手紙で、「庭のあちこちに提灯がランタンのように吊され、小さな屋台がいくつも散らばっていて、まるでお伽の国に迷い込んだようでした」と書いてあった。
 しかし愚老が注意を惹かれたのは、別の点についてだった。外国人の本には、現状に満足して幸福そうに暮らしている日本人がぞろぞろ出てくるのである。オズボーンという英国人は長崎の印象をこう述べている。<この町でもっとも印象的なのは(そしてそれはわれわれの全員による日本での一般的観察であった)男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった>
 オズボーンの同僚のオリファントも同じようなことを書いている。。<個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である>
 
 オリファントは、それまでセイロン、エジプト、ネパール、ロシア、中国などについて豊かな見聞を持ち、そのいくつかについて旅行記をものしてきている。その彼が母親への手紙で日本を絶賛しているのである。
 「日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感の持てる国民で、日本は貧しさや物乞いのまったくいない唯一の国です。私はどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます」
 この手紙にあるように日本を好きになる欧米人が、中国を嫌っているケースも多々見受ける。それは家屋や衣服が中国ではけばけばしい色彩が多く安ぴかものが横行しているのに、日本では無色か地味な色合いのものが多いことが関係している。
 ほかにも、日本では錠も鍵もない部屋に物を置いていても盗まれないとか、女が口汚く罵る声を聞いたことがないとか、子供が虐待されている光景を見たためしがないということも日本を好む理由になっている。
 19世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、「ほかの点はどうあろうとも、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった」のである。
 オズボーンは江戸上陸当日「不機嫌でむっつりした顔にはひとつとて出会わなかった」というが、これはほとんどの欧米人観察者の眼をとらえた当時の人びとの特徴だった。ボーヴオワルは、「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」「日本人ほど愉快になり易い人種は殆どあるまい。良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける」と言っている。
 工部大学校の教師をつとめた英国人ディクソンは、東京の街頭風景を描写したあとで次のように述べている。
 「ひとつの事実がたちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。群衆のあいだでこれほど目につくことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。彼らは生活のきびしい現実に対して、ヨーロッパ人ほど敏感ではないらしい。西洋の都会の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆からきやつきやつと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中には悲哀など存在しないかに思われてくる」(つづく)