甘口辛口

謎のスパイM(1)

2015/2/20(金) 午後 0:06
 謎のスパイM
 テレビで元日本共産党書記長徳田球一に関する番組を見ているうちに、いろいろな記憶や疑問が沸騰するように沸き上がってきた。徳田球一は戦後の共産党をリードした歴史的人物だが、彼は単純で開けっぴろげな性格だったから、徳田については、取り立てて疑問に思う点はない。
 だが、徳田と並ぶ存在だった野坂参三や徳田・野坂の下で党を実質的に切り回していたといわれる伊藤律については分からないことばかりだった。彼らは党の機密を敵に売り渡していたスパイだったというのだが、その真相が部外者には皆目分からないのである。
 もっと不可思議なのは、戦前の日本共産党を率い、結果として党を潰滅させた飯塚盈延という男もスパイだったという話なのである。。彼は、現在も「スパイM」と呼ばれている超有名な人物であるにもかかわらず、戦後姿を消して、その正体が今もって明らかになっていない。
 彼は共産党を潰すために軍部あるいは警察から送り込まれ、うまうまと党のトップまで上りつめ、配下の党員に大森銀行ギャング事件を実行させている。その彼が失踪前に語ったとされる談話が残っているので、まず、これを引用してみよう。
 「例の大森の銀行ギャング事件、あのときはちょうど(わたしは)大尉(憲兵大尉)でした。共産党もバカな連中ばかりで、まんまとわたしの指揮どおりひどいギャングをやってのけて党自身が自殺行為をする。最後には熱海事件で全部の幹部連中を叩きこんでやりましたが、このへんが汐時だろうというのでそのまま上海に走りましたよ」
 こうした得体の知れない人間を、党のトップにしてしまったのは、当時の共産党が相継ぐ弾圧によってベテラン幹部を次々に逮捕され、右も左も分からない年若い党員が幹部要員に押し上げられていたからだった。例えば大学を出たばかりの宮本顕治も党の責任者になり、スパイの疑いのある党員の取り調べにあたっている、そして、査問中に相手を死なせたという理由で殺人罪で投獄されている。
 いったい、飯塚盈延という男は何者だったのか。彼は上海に飛んで姿を隠したというが、その後の彼はどうなったろうか。飯塚については、調査能力に定評がある立花隆と松本清張が熱心に探索を続けたが、結局、真相を掴むことは出来なかった。
 愚老は、立花隆の「日本共産党の研究」と松本清張の「昭和史発掘」を読み、自分の生きているうちに彼の消息を知ることが出来るだろうかと、飯塚に関するに新情報を鳩首して待ち望むようになったが、どうやら希望は満たされそうにない。
 としたら、せめて野坂参三スパイ説の真相を知りたいと願っている。愚老は、学生時代に野坂の選挙運動を半日だけ手伝ったことがあるのだ。何時の選挙の時だったか思い出せないが、野坂の選挙事務所が学生の運動員を募集しているという話を聞いて、一人で野坂の事務所に出かけた。すると、党員らしい中年の男が、集まってきた4〜5人の学生に「今日、野坂候補は護国寺前の空き地で街頭演説をする予定だから、あのあたりの家々に呼び出しをかけて欲しいんだ」という。
 そして、付け加えた、「戸別訪問は、選挙法で禁じられているから、君らはこういって誘い出してほしい、<私も聞きに行きます。ご一緒にいかがですか>というふうにね。つまり、君らは、お仲間として相手に行動を共にするように誘いかけるという形にするんだ」
 それから我々は党員に連れられて、「君はこの通りを」「君はこの路地を」と訪問する道筋を割り当てられ、「演説は午後1時からからはじまるから、それまでに護国寺前に戻ってきて欲しい」と命じられる。
 愚老が割り当てられたのは、小さな平家(ひらや)がゴミゴミ密集して集まっている路地だった。声をかけると応対に出て来るのは、中年の主婦かばあさんで、男たちはそれぞれ働きに出て家には居ないようだった。こちらがビラを渡して「ご一緒にいかがですか」と誘っても、うなずくか「はい」というだけでそれ以上の返事は返ってこない。
 一軒だけ、ビラを受け取ることを断ってから、「裏におじいさんが居ますから、話はそちらにして下さい」と頼んだおかみさんがいた。そのおじいさんというのは、多分、おかみさんの舅に当たる老人で、何をするにも、彼女はこの老人の許可を得なければならないらしかった。
 隣家との境の空き地が狭いために、体を横にしなければ先へ進めない、そんなじめじめした通路を通って裏へ回る。すると母屋に続いて畳二枚を並べたくらいの小さな物置があり、その中で一人の老人が玩具の虎を作る内職をしていた。老人の脇には、既に完成した虎が二十個ほど並んでいる。
 老人にビラを渡したが、相手は受け取っただけで読みもしない直ぐ放り出してしまう。こちらが野坂参三の話を始めても、じろっと見返すだけで返事もしない。老人は頑丈そうな体つきをしていたが、げっそり痩せているため角張った骨格ばかりが目につく。面長の顔に鼻筋が通り、なかなか立派な顔つきだった。が、ぎろっとした大きな目に怒りと恨み、そして絶望の色が濃く塗り込められている。愚老は、這々の体で物置から逃げ出した。
 そんな調子で家から家へと路地をめぐっているうちに、純情そうな若い奥さんが玄関先に出てきたことがあった。年若い女性を苦手としていた愚老も、こういう純朴なタイプの相手なら普通に話が出来る。「ご一緒に演説会に出かけませんか」と声をかけると、先方もにっこり笑って、「ええ」と答えてくれた。
 時間が来たので、護国寺前の所定の場所に向かうと、街頭演説の準備が出来上がっていた。ほどよいところに候補者が演説する台が置かれ、その台を背後から半円形に囲むように学生や党員がプラカードを持って立ち並ぶのである。
 そのうちに野坂参三を乗せた車が到着し、聴衆も三々五々集まってきて候補者を挟んでプラカード組の反対側に居並ぶ。やがて台に上った野坂が演説を始めた。愚老らは斜面になった広場の高みの側に立っているため、候補者を挟んで反対側に居並ぶ聴衆を上から見下ろす形になっていた。
 こちらが、ようやく二列か三列になった人々を眺めながら、(あまり聴衆は集まって来ないな。平日の午後1時では、集まれと言っても、 やはり無理か)と、考えていると、その聴衆の後方から、あの純情そうな若い奥さんが急ぎ足でこちらに近づいてくるのが見えた。
 奥さんは聴衆の列の背後まで来ると、野坂の演説に耳を傾けながら、しきりにまわりを見回している。彼女は愚老との約束を果たすために急ぎ足でここに駆けつけてきたのだ。そして、愚老が聴衆の中に混じっていると考えて、あのように目で探している・・・・
 やがて奥さんは失望したようにも、ほっとしたようにも見える表情で演説の続きを聞くこともなく足早に去って行った。愚老はこの一部始終を黙って見ていた。こちらも、奥さんが自分に気づかなかったことに救われたような思いと失望とを同時に感じていた。
 たった半日ではあったが、愚老が志願して野坂の選挙を手伝ったのは、彼の「平和革命論」に賛同していたからだった。それまでの日本共産党は天皇制を否定し、財閥解体を要求するなど硬派の闘争路線を採択していたが、亡命先の中国から帰国した野坂は必ずしも天皇制を否定せず、合法的な選挙によって政権を奪取することを強調していた。当時、学生運動に参加していた愚老は野坂流のソフト路線の支持者だったのである。
 しかし、西側諸国との武力衝突を覚悟していたソ連からすれば、いざという時に実力行使で味方してくれるものと期待していた日本共産党が平和路線に移行すれば、日本を当てにすることが出来なくなる、そこでソ連はコミンフォルムを通して野坂の平和革命論を攻撃し始めたのだ。
 すると、日本共産党内にコミンフォルムに同調して党のソフト路線を非難するグループが生まれ、鉄の団結を誇った日本共産党が分裂する。・・・・野坂参三がスパイ扱いされて除名されたとしたら、この党の分裂が背景にあるのではなかろうか。(未完)