甘口辛口

謎のスパイM(3)

2015/3/15(日) 午後 4:50
 謎のスパイM(3)
 野坂参三が小規模の集会で演説するのを間近で見ていたことがある。これが共産党の大幹部かと疑わせるような平凡な中年男だった。何処にでもいるような凡庸な顔立ちに加えて、貧弱で小柄な体型をしている。その男が、演壇に立って、隣人と立ち話をする時のような抑揚のない低い声で話をするのだった。
 その集会で彼は、国際情勢について演説することが予定されていた。徳田球一や宮本顕治が獄中で18年を過ごしている間に、野坂は亡命先のソ連・アメリカ・中国で活躍をしていたのだから、彼ほど世界情勢を裏の裏まで知り尽くしている人間はないと思われていたのである。
 しかし野坂参三は、世界情勢について突っ込んだ話を全くしなかった。新聞に書いてあるようなことをさらっと語っただけで、直ぐに話を終えてしまった。彼が語ったことで、今思いだすことが出来るのは、世界情勢について知ろうと思ったら、新聞の一面に載っている大きな記事ではなく、二面・三面に載っている海外からの短信を注意して読むべきだと助言したことくらいだった。
 野坂が多重スパイだったことが明らかになった現在、この日の彼の演説を思い返してみると、いろいろと思い当たることがあるのである。通例の二流政治家は、聴衆を前にして自分だけが知っている「秘話」なるものを、もったいを付けて披露し、自分がいかに大物であるかPRする。人々の注目を自分に集めたいのだ。
 だが、スパイとしての目から見れば、これほど危険なことはない。だから、野坂は自衛のために自分の存在を印象づけるような言動を極力避け、対話や演説も極力短くして、その内容を当たり障りのないものに限定するのである。野坂参三の自衛本能の強さという点については、こんな話も思い出される。国会議員だった頃、野坂は家を出るときに弁当を用意し、正午になれば他人に頓着することなく平気で弁当を開いて食事にしていたという。こうした合理的な生活法のためか、彼は政治家としては稀に見るほどの長生きをしている。百歳を超えて生きたのである。
 野坂が日本政府のスパイだったことは、3.15事件で逮捕されながら、暫くして「眼病治療のため」という名目で保釈になっていることで明らかだと思う。同時期に逮捕された徳田球一が網走刑務所などに送られていることを考えると、野坂が何もしなければ、彼も同じ獄中18年の運命になっていたのである。ところが彼は、同じく共産党員だった妻の竜と共に、病気を理由に処分未定のまま保釈になっているのだ。
 特高警察は、相手が思想犯ということになれば、取り調べ中の小林多喜二や岩田義道を拷問で殺しているし、明日をも知れぬ重病人も放置して獄中で死なせている。
 哲学者の三木清などは、全身を疥癬に蝕まれ、獄中で痒みのために悶え死んでも放置していた。にもかかわらず、野坂だけは眼病を理由に保釈され、そのまま、日本を密出国してソ連に入国し、日本共産党代表としてコミンテルン執行委員になっている。以後15年間、彼はソ連・アメリカ・中国で活躍する国際的な活動家へと転身する。
 この15年の間に、彼はコミンテルンの指示でアメリカに渡り、計3年余を米国で過ごしているし、中国に赴き中国共産党と生活を共にしてもいる。
 こういう手品のようなことが可能になったのは、時の内務省警保局長次田大三郎が野坂の義兄だったからだ(次田の妻は、野坂の妻竜の姉)。内務省警保局長は特高警察を含む警察部門をコントロールしていたから、野坂夫妻の為に便宜を図ることなど、いともたやすいことだったのだ。しかし、警保局長は無条件で野坂夫妻のために便宜を図ったのではなかった。スパイになって日本政府のために働くという条件をつけた上の庇護だったのである。
 ソ連に渡って、世界の共産党を束ねるコミンテルンの執行委員になった野坂はスターリンに会い、ソ連軍やソ連秘密警察の要人とも親しくなった。そして、いつとなく彼はコミンテルンのために動くだけでなく、ソ連のためのスパイとして行動するようになっていた。そして、アメリカにおいても、彼は政府機関のために情報を提供するという挙に出ている。
 当時、ソ連には世界各国からいろいろな人間が流れ込んでいた。初歩から共産主義の理論を学ぼうとして勉強目的でやってくるものもあれば、自国の警察に追われて亡命目的で逃げ込んでくる共産党員もあった。
 その頃、アメリカ西海岸にはアメリカ共産党の党員が多数いて、政府の弾圧が厳しくなったため彼らは集団でソ連に亡命している。彼らは「アメ亡組」(「アメリカ亡命組」の略称)と呼ばれていたが、この中には米国から送り込まれたスパイがいると噂されていた。ソ連政府が恐れていたのは、資本主義諸国から亡命してくる共産党員の中にスパイが混じっているかもしれないということだった。
 猜疑心に駆られたソ連当局は、自らが集めた情報をもとに国内に居住する外国人を大量に捕らえてきてスパイという名目で処刑しながら、野坂にも情報提供を求めた。彼は依頼に応えて、スパイと思われるものや反革命分子と推定されるものを当局に通報している。彼の通報によって、「アメ亡組」の相当数が処刑され、日本人の山本懸蔵、国崎定洞などの良心的な共産主義者も処刑されたといわれる。
 だが、愚老は野坂を仲間を売った卑劣な密告者として断罪することは、危険ではないかと考えるものだ。
 スターリン時代は、信用できないデマが乱れ飛び、それを根拠に容赦なく処刑が行われた恐怖時代だったのである。仲間を密告したと非難されている野坂自身も、何時処刑されるか判らない立場にあったのだ。その証拠に野坂の妻竜もこの時期にソ連共産党から除名され、逮捕されている。野坂が必死になって助命運動をしなければ、竜は処刑されていたのである。
 時を経て、戦後に日本に帰国した野坂は、コミンテルンの後身コミンフォルムから平和革命路線を批判されている。彼がもしソ連にいたころに批判されたとしたら、彼は間違いなく逮捕され銃殺されていたと思われる。野坂が山本懸蔵を密告したのは、ライバルだった山本を消して自分が昇進するためだったと説くものがあるけれども、彼は昇進を考えるどころか生き残るために必死だったのである。(つづく)