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「依存症者」の人生(4)

2015/5/9(土) 午前 9:37
 依存症者の人生 4
 月乃は、「自助グループ」について西原恵理子にこう語っている。「一人だったら自分の中で悶々と巡り続けている妄想を、仲間の前ではき出すことで、一種の浄化作用というか、マイナスの感情をためずに縮小させることができる。さらにそこでわたしは、許すことを徹底して学びました。許して許して許しまくることを覚えてから、ずいぶん楽になりました」
 彼は、これに加えて、さらにこんな言い方もしている。「治療して依存症が治っても、当事者が現実社会に復帰するのは簡単なことではありません。一般社会に出たら、またすべてが否定されかねない。そうした意味でも自助グループの集まりは、わたしにとって大きな救いになりました。自分のダメなところをさらけ出して、ダメ自慢しながらみんなで笑い合える場がなかったら、わたしは立ち直れなかったかもしれない」
 「自助グループ」がなかったら立ち直れなかったかもしれないという体験から、月乃は「こわれ者の祭典」を立ち上げて、世の依存症たちを勇気づける運動を始めたのであった。生きずらい世の中に敗北して「こわれ者」になってしまった人々を壇上に並べて、同じく生きずらさを感じて集まってきた聴衆の前でダメ自慢をさせる。そのことで演壇に立ってダメ自慢をするものも救われるし、それを笑って聞いている聴衆も救われるはずだと考えたのだ。
 要するに、このイベントは、精神病院内で開かれている「自助グループ」の活動を、公開の場で行うものだった。拡大版「自助グループ」活動だったのである。だから月乃自身も、自らのオナニー人生について語って会場の喝采を博したのである。
 「自助グループ」の活動が、なぜ目覚ましい効果を発揮したかといえば、この活動を通して、人は「私的認識」の狭い世界から、「事実認識」の広い世界に出ることが出来たからだった。
 自己に執着して意識を鋭く研ぎ澄ましてゆけば、思考は垂直軸を上下するしかない。この垂直の軸の頂点には霊的な精神や、あるいは超越的な神が存在するかもしれない。だが、人はいつまでもその頂点に留まっていることは出来ない。高いものに触れた後で思い至るのは、我欲にとらわれてあがき続けるおのれの醜くさであり、救いようのないダメ人間でしかない自分の実像なのである。自分を高めようとする欲求が強ければ強いほど、自分に絶望する度合いも逆比例して深くなるというジレンマ。
 価値感覚と強く結びついたこの垂直軸を放棄して、思考を「人間すべて平等」「人類みな兄弟姉妹」という没価値的・没差別的な水平軸に転換させるにはどうしたらいいのだろうか。
 われわれは、生まれた時から常に人間を眺め続けている。そして人間はすべて平等に作られていることを「事実として認識」している。にもかかわらず、人は自分が置かれている社会的な規制に縛られ、その中でより善き地位を得ようとあがく間に、「人間すべて同じ」という事実認識を忘れ去ってしまう。
 しかし、これを思い出すのは、実に簡単なことなのである。自分が未熟なダメ人間であり、そのマイナス面で万人とつながっていることを自覚するだけでいいのだ。
 人は互いに未熟な人間であることを自覚することによってのみ、互いを許しあうことが出来る。月乃も、他者を許しまくることで楽になったのであった。