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オウム真理教の味方?(2)

2015/5/22(金) 午前 11:31
オウム真理教の味方 2

愚老がオウム真理教の味方だと告発する前回の資料を最初に読んだとき、これは確かに自分が書いたものだと分かったが、それを何時どこに書いたものか、すぐには思い出せなかった。資料を読んでいくと、「・・・・である」調で書かれている部分と、「・・・・です」調で書かれた部分があり、「です」調で書かれている後半の部分は、愚老が昔、「パソコン通信」をやっていたころに書いた文章であることは分かった。が、前半の導入部を何時、何処に書いたのか思い出せなかったのだ。

愚老はブログを始める以前、かなり熱心に「パソコン通信」をやっていて、Niftyのフォーラムに毎日のように書き込みをしていたものだった。「パソ通」はいくつかの分科会に分かれており、各フォーラムには、何人もの論客がいて、さまざまなテーマについて意見を戦わせていた。オウム真理教の犯罪が明らかになった時などは特に白熱した議論が交わされたのであった。

愚老は、最初、ごく単純にオウムの信者たちを馬鹿な奴らだと思っていた。麻原が本当に空中浮遊したなどと信じこみ、自分も超能力を身につけようとして入信するなど、その知能は小学生にも劣ると考えていたのだ。しかし、オウムの幹部が次々に逮捕され、その経歴や人柄が明らかになってくるにつれて、そうした見方を変えざるを得なくなった。

特に注意を引かれたのは、幹部の中で一番年少だった井上嘉浩の生き方だった。彼は高校に在学中、仲間たちが一流大学に合格することしか考えていないことに絶望していた。高校は進学のための予備校に成り下がり、そのことに疑問を持っているものは一人もいないように見えた。それで高校を飛び出してオウムに走ったのだが、 高校教師をしていた愚老には、彼の気持ちが痛いほどわかったのである。

オウム信者のうちの良心的な分子は、功利主義に塗りつぶされた現世から脱出して、真実の道を求める同志的集団に自分を投入する積りでオウム真理教に参加したのであった。彼らの「求道の志」を見抜いていた麻原は、まず彼らが修行に専念することを求め、超能力とは刻苦して修行に専念したものに与えられるボーナスのようなものだと思わせた。

だから、オウム教団はあたかも新形式の禅道場か、インドのヨガ集団のようなものになった。これは、教義や理論を持たない山師のような麻原にとっては、極めて巧妙な集団指導法だったのである。

愚老がオウムの味方をしたとすれば、麻原に騙されながら、なおも「求道の志」を抱持し続けた弟子たちに対してであり、麻原や麻原式ヨガ修練法に対してではなかった。だが、パソコン通信のフォーラムでは、愚老は会員から批判されつづけ、弁明するのに汗だくになっていたのだった。

愚老が参加していたフォーラムには若者がほとんどいなかった。主流は中年の男性で、その中には医師もいたし、企業の中堅幹部もいた。だから、「年寄りのくせに<風の子>かい」と愚老をからかったり、こちらも「まあ、まあ、そんなに興奮しないで」と応じたりして、互いに隔意なく論戦を続けることができたのだ。オウムのメンバーが、愚老を味方だと感じたとすれば、それはパソコン通信での愚老の書き込みを読んだからだと思われる。

さて、告発者が引用した問題の文章を、愚老は何処に書き込んだのだろうか。これは愚老が作成した二つのホームページの一つ、

「私の宗教的体験http://www.asahi-net.or.jp/~VS6H-OOND/

の中に載っていたのである。このホームページには、「俗界探究」という章があり、その項目の一つに「オウムの信者たち」が入っていたのだ。記録によると、この「俗界探究」は11年前に書かれているので、こちらは、その存在をすっかり忘れていたのだった。

・・・・・本題に戻ろう、告発者は愚老について、こう書いている、「オウム事件当時に、パソコン通信の世界でオウム真理教を必死で擁護していいたことでも有名だ」と。それは果たして事実だろうか。愚老が「擁護」しようとしたのは、オウム真理教そのものではなく、麻原に誑かされた真面目な求道者たちであり、それを読み取れないとしたら、告発者は愚老に対する悪意から目がくらんでしまっているのである。

告発者は、冒頭で

「**氏が全ての誹謗中傷記事を消去したら、このブログも閉鎖します」

と「上から目線」の物言いをしている。さんざん愚老に対して誹謗中傷を重ねておいて、愚老の文章を誹謗中傷だと非難するとは滑稽至極だ。

蛇のような執拗さで愚老の書くものを追い回して悪罵を放ち続けるストーカーは、一人ではなく二人いて、一人は頭のおかしくなった女性であり、もう一人がインターネット操作に長じたこの告発者なのである。この人物は右翼で、インターネットの世界を自分の意のままに操作できると己惚れている人物だ。

この人物には、これまでに自分が何をしてきたか、胸に手を当てて考えてみることを勧めたい。