甘口辛口

長野県の分県問題

2006/8/8(火) 午後 7:44
数年前、三浦梅園の旧宅を訪ねるために、九州の国東半島に出かけたことがある。その時乗ったタクシーの運転手に「どこから来たか」と質問されたので長野県だと答えたら、運転手から「分県問題は、どうなったですか?」と反問され驚いてしまった。

長野県が分県問題で揺れたのは、戦後間もなくのことだから、もう60年近い昔の話なのだ。だが、遠い九州に、まだこの騒動を記憶している人がいるのである。

長野県は図体のでかい県であるのに、県庁は長野市にあり、北方に偏している。もし県庁を県の中心に持ってこようとしたら、松本を飛び越えてさらに南の塩尻市近辺になるのだが、分県論が盛んになったのは、そうした地理的な理由からだけではなかった。長野県は地政学的にも、南北でハッキリ違いがあるのである。

「東北信」と呼ばれる長野市・上田市・佐久市などの住民は、東京に出るのにJRの「信越線」を利用するのに対し、「中南信」と呼ばれる松本市・諏訪市・伊那市・飯田市の住民は東京に出るのにJP「中央線」を利用する。戦前においては、この差は実に大きかったのである。「東北信」は関東平野に隣接し、関東の影響を色濃く受けるけれども、「中南信」から東京に出るには、同じ山国の山梨県を通過しなければならない。東京・関東からの影響は一クッション置いて「遠くから」伝わってくるのだ。

分県問題はこうした事情を反映して、「東北信」と「中南信」を分けようというものであった。同じ信州人といっても、両地区の人間にはかなりの違いがあるのである。政治経済の中心である関東・東京に隣接する「東北信」の住民は、時代の動きに敏感で順応力に富んでいる。だが、「中南信」の人間は、時流に対してより批判的であり、明治以後はむしろ反政府的な姿勢を取ってきた。

自由民権時代の松本には、木下尚江を生んだ奨匡社があり、飯田の民権論者は飯田事件をひき起こしている。「中南信」の小学校教師は、「白樺」の文学運動に呼応して自由主義教育を実践したし、プロレタリア文学が盛んになると諏訪から平林たい子・藤森成吉が出ている。戦後になってもこの傾向は続き、「東北信」が保守党優勢だったのに対し、「中南信」からは、左派社会党や共産党の国会議員を多く出している。

そして、こうした違いは、今回の県知事選挙の投票結果にも反映し、田中康夫知事は「東北信」で大きく票を減らしているのに「南信」ではほとんど減票がない。もし、長野県の分県が実現し、田中知事が「中南信」の知事だったら、彼は選挙に負けるようなことはなかったかもしれない。