米軍機の空襲が予見されるようになったとき、政府は家屋密集地区の建物を間引きすることを決定した。下町などに焼夷弾を落とされたら、火災が周囲に延焼していって、被害の大きくなることを恐れたのだ。
戦争中の政府は、何についても土壇場になるまで真剣に対策を講じないという悪癖を持っていた。戦車隊員だった司馬遼太郎は、軍部がいかに間抜けだったか、実例を挙げて説明している。陸軍の参謀達は、米軍の本土上陸が近づくまで戦車は水田を走行できないと決め込んでいた。だが、米軍の上陸が迫ってきたので、日本軍の戦車で実験してみたら戦車は平気で水田の中を走り回ることが分かり、参謀達は大いに慌てたというのである。
家屋密集地区の間引きの問題も、政府は直前になるまで手をつけなかった。そして、サイパン島の陥落が迫ってから、急遽、建物の取り壊しに着手したのだ。私達学生はこの作業に動員され、炎天下の下町で毎日家を引き倒して歩いた。急に取り壊しの指定を受けた住民が、準備不足のまま、どんな思いで自宅を立ち去ったか、若い私達は考えもしなかった。
家を壊すには、柱の下端に切り込みを入れておいて、家屋に綱引き競技用の綱を通し、エイヤ、エイヤと皆で引き倒すのである。二階建ての家を引き倒すのは、壮観だった。背の高い家が、ゆらりゆらりと揺れ始め、やがて屋根瓦を振り落としながら土煙をあげて倒壊する。入学以来、あちこちで「勤労奉仕」を命じられてきたけれども、こんなに面白い仕事はなかった。私達はシェクスピアの劇に出てくる墓堀人足よりも陽気に、毎日、下町に出かけて喜々として家を倒して歩いた。
下町の住居は安普請が多く、家を引き倒しても、あまり罪悪感を感じなかったし、もったいないとも思わなかった。しかし、そのうちに丹精を凝らした一軒の住宅にぶつかった。あの時代にどうやって手に入れたのか、使用してある用材も吟味してあるし、戸、障子も精巧に作られ、家の中の至る所がきれいに磨き込まれている。
「これは軍需工場なんかで儲けたやつの家だろうな」
そんなことを考えながら、柱に切り込みを入れ戸外に出ると、少し離れたところに60格好の初老の女性が立っていた。彼女は家を出たり入ったりして作業を続ける私達を、じっと無言で見守っていた。
そのうちに私達にも分かってきた。彼女は、これまでこの家に住んでいた女性なのだ。あそこにああして立ちつくしているのは、愛着のある家の最期を見届けるためなのである。
堅牢に出来ている住宅は、綱を通して引っ張っても、なかなか倒れない。作業は長引いた。私達は目に無量の思いをこめて、作業を見守っている女性の視線が気になって仕方がなかった。私達が個人の家を引き倒して回る自分たちの行動にある種の後ろめたさを感じるようになったのは、その時からだったのである。(つづく)