江戸時代の日本は、その全期間を通して、人口がほとんど変わらないという不思議な現象を見せている。当時、島国日本は鎖国していたから、他国から日本に入ってくるものはなかったし、国内から出て行く人間もなかった。ということになれば、人口を一定の数に押さえる調節作用が何処かで働いていたと考えるしかない。
事実、あの時代には人口調節の自律作用が働いていたのである。親が生まれてきた赤ん坊を始末するという方法で。
戦国時代に日本にやってきたイエズス会の宣教師たちは、ローマにある本部に日本での活動の報告書を書き送っている。そのレポートに、町中を流れる川のあちこちに嬰児の死体が引っかかって浮かんでいるという記述があるのである。
あの時代の多くの親たちは、子供が生まれると濡れ紙を顔に貼り付けて窒息死させ、川に捨てたのであった。子供を人気のない野山に捨てる親もあった。「旅をすみかとして」各地を旅した松尾芭蕉は、親に捨てられた嬰児が飢えと寒さで泣いているのを何度か見ていたらしく、「汝の運命の至らなさを泣け」とつぶやいてその場を通り過ぎている。
親たちが自力では育てられない子供を殺したり捨てたりしたから、人口は同じ水準を保ち続けたのである。現代人が、当時の親たちの残酷無情を責めることは出来ない。あの時代にも中条流と称する堕胎医がいたけれども、これの手を借りるにはそれなりの費用が必要だったから、貧しい親たちはとにかく妊娠した子を生み落としておいて、その後でこれを処置するしか方法がなかったのだ。
近頃、ニュースをにぎわせている親による幼児虐待事件も、その背景にはやはり貧しさがある。子連れの女が、若い男と同棲する。すると、思慮に欠けた男が子供を邪険に扱い、暴力をふるったりする。この場合、母親が男を制止したり、あるいは子供を連れて家を飛び出したりしないのは、そんなことをしたら暮らしていけなくなるからだ。幼児を抱えていたら、母親は働くことが出来ないのである。
子供だった頃に、近所に仕事師の一家がいた。仕事師というのが、そもそも何をするのか、今もって分からないのだが、とにかく40格好のその無愛想な男は、しょっちゅう家を留守をしていた。十日とか半月とか余所に行っていて、帰宅すると一日か二日家にいるだけで、また姿を消すという具合だった。
男が帰ってくると、おかみさんは三人の子供を家から追い出し、精一杯の御馳走を膳に並べて、昼間から酒の相手をする。子供は小学生と、まだ学校にも上がらないような幼児で、両親の食事が済むまで外でおとなしく遊んでいるのだ。水商売上がりだというおかみさんは、「亭主を機嫌良く働かせるのが、女の甲斐性だ」と常々口にしていた由で、これがまた近所の母親たちを憤慨させていた。私は、主婦たちが集まって仕事師のおかみさんの悪口を言っているのを何度か耳にしたことがある。
やがて仕事師の一家は何処かへ引っ越していった。あの頃の私は大人たちの非難を聞いて、そんなものかと思っていたけれども、今ならおかみさんの気持ちがよく分かるのだ。おかみさんにとって、男の働きが唯一の命綱だった。彼女は子供に冷たいと責められていたが、男に機嫌良く働いて貰わなければ、その子供を養って行くことも出来なかったのである。
もっとも、貧しさだけが原因で親は子供を虐待するわけではない。
木曽で勤務していた頃、私は線路端の借家に住んでいた。帰宅して鉄道線路沿いの道を散歩し、散歩コースの折返し点の近くまで行くと、物置を少しだけ大きくしたような家があった。
奇妙なことに、この家にはガラス窓というものがなく、窓はすべて板戸だった。そして、その板の窓が何時行ってもぴったりしめ切ってあるのだ。この木箱のような家の中では、日夜、恐るべきことが進行していた。この中には錯乱した若い母親が幼い子供と暮しており、母親はたえず子を罵った叩いたりしているのである。私は母親のかん高い怒声と子供の泣き叫ぶ声を散歩のたびに耳にしている。しかし一度もこの不幸な母子の顔を見たことがないのであった。
戸外から母親の金切り声を聞いただけで、彼女が精神に異常をきたしていることが分かるのだが、だれも見て見ぬふりをしている。私も同じだった。ああいう母親に育てられた子供はどうなるのだろうか。
この世は、往古の昔から私が見てきたような悲惨な光景で溢れている。だが、世界は徐々にこの種の悲惨を克服し、日に新たに再生しつつある。世界内のさまざまな多元的勢力は、相互に関連しあいながら反動的な要素を自滅させ、確実に普遍的真理を実現する方向にむかって前進している。ベルクソンのいう「創造的進化」こそが、世界の本質なのである。
われわれは、いたずらに絶望しないで普遍的善実現のために努力すべきなのだ。