(偏奇館─松本哉「永井荷風という生き方」より)
永井荷風の父親は、息子が「陽の当たる場所」に出たのを機会に、ちゃんとした結婚をすることを求めた。荷風は云われるままに材木商の娘と結婚したが、父が病死すると直ぐさま妻を離別し、以前から囲っていた妾の八重次を家に引き入れて妻にした。しかし、この八重次は半年後に置き手紙を残して、家を出て行ってしまう。かくて、永井荷風は36歳で独り身になり、以後死ぬまで独身者として生きることになるのだ。
父の死とともに永井荷風の懐には膨大な遺産が転がり込んで来たから、彼はまた金満の独身者として生きることになった。彼の相続した家屋敷は千坪以上の広大なもので、大正7年、この土地を二度目に売却したときの代価(彼は地所を二回に分けて売却している)は2万数千円に達している。
ここで、ちょっと昔の貨幣価値について注釈をつけておこう。
荷風が二回目に土地を売却した大正7年から約20年をへだてた昭和10年代の半ばに、中学生だった私は中学の先輩の家計について次のような話を耳にしたことがある。その先輩は母子家庭の一人息子だったが、小綺麗な格好をして何処かのお坊ちゃんのようだった。その母子の裕福な日常を支える収入は、貯金の利子だけで成り立っているというのであった。
では、元本の預金がいくらかといえば、1万円だというのである。一万円を銀行に預けておけば、親子二人が利子だけで贅沢に暮らして行けたのである。昭和10年代ですら、それだけの価値があったのだから、大正の時代の2万円余と云えば、現代に換算すれば数億円に相当するのではあるまいか。
実際に、荷風は父の死後、元本の証券に手をつけることなく、株券の配当と貯金の利子だけで生活している。大学教授としての俸給や、出版社から受け取る原稿料・印税を当てにする必要は、毛頭なかったのである。だから八重次に逃げられて独り身になると、飽きが来ていた大学を辞め、原稿の依頼も断り、無為徒食のぶらぶら生活に入ったのだ。
永井荷風が慶応大学を辞めたのは大正5年だが、奇しくも有島武郎はその前年の大正4年にやはり札幌農科大学(札幌農学校の後身)教授の職を辞している。荷風と有島はほぼ同期間アメリカで暮らした後に帰国して大学教授になり、相前後して父親の死を迎え、そして同じ頃に教授の仕事を投げ出している。違うところは、有島武郎が自由の身になってから本格的な作家活動を開始して、「カインの末裔」「迷路」などの傑作を次々に発表し始めたのに対して、荷風が教授を辞めてから作家として休息期に入ったことだった。
永井荷風のような男が休眠状態に入ったら、誰でも戦後に登場した無頼派の作家たちのように破滅的な生き方をするのではないかと考える。
独身の中年男で、金は余るほどある、趣味は女道楽、若い頃から、「予は淫楽を欲して已まず。淫楽の中に一身の破滅をねがうのみ」(西遊日記抄)と放言していた荷風だから、身を持ち崩すのもさぞ早かったろうと思われたのに、蓋を開けてみたらそんなことは全くなかったのだ。彼はいわば謹直な放蕩者であり、好き勝手なことをして財産を食いつぶしているように見えて、実は手堅い日常を送っていたのである。
5年間に及ぶ外国生活で荷風が身につけたのは、実生活上の合理主義だった。
彼の合理主義を何より明らかに物語っているのは、麻生に彼が建てた「偏奇館」と呼ぶ住まいで、これが実用一点張りの箱のような家なのだ。総二階建ての、カルタを並べたように窓がずらっと並んだ、事務所か寄宿舎のような殺風景な家なのである。
こういう趣味も何もない家を訪ねてくる者は、ほとんどなかった。彼が親戚縁者と関係を絶ち、作家仲間とのつきあいも避けていたからだった。
彼が女性と性交渉する際に必ずコンドームを使用したのも荷風流の合理主義のためだった。読書と淫楽を中心にした独居生活を持続するためには、邪魔になるものをすべて切り捨てなければならない。そして一番邪魔になるのは、係累なのである。荷風は、この世に妻と子ほど煩わしいものはないと考えていたのである。
───「わたしは自ら制しがたい獣欲と情緒とのために、幾度となく婦女と同棲したことがあったが、避妊の法を実行する事については寸毫も怠るところがなかった」
と、書いた荷風は、後年になって、自らの行動を肯定して次のように書いている。
──「わたくしは老後に児孫のない事を以て、しみじみつくづく多幸であると思わねばならない」
戯作者に徹すると宣言して、「風教に害のある反社会的な小説」ばかり書いてきた永井荷風が、文化勲章をもらったと聞いて、首をひねる文壇関係者が多かった。伊藤整は、新聞に載っている文化勲章を首にぶら下げた永井荷風の写真を見て、「哄笑」を禁じ得なかったと云っている。伊藤整ばかりではない、多くの作家も反骨精神の権化だった荷風だから、当然、文化勲章を辞退するものと思っていたのである。
しかし荷風が文化勲章をありがたく拝受したのは、純粋に合理的な理由からだった。勲章と一緒に国から与えられる年金が欲しかったのだ。戦後のインフレで所有している株券も預金も紙くず同然になった上に、戦災で偏奇館を焼失して親戚や知人の家に間借りしていた永井荷風にとって、年金は今後の経済生活を保障してくれる貴重な「財源」と感じられたのだ。
戦後になって荷風の作品が再評価され、原稿依頼が殺到し、印税も次々に流れ込んできたけれども、万事に用心深い彼は、これらに加えて更なる金銭的な保証を求めていたのである。
永井荷風が淫楽にふける個人主義者だったことは疑いない。だが、彼の個人主義は背後から独特の合理主義によって支えられていたから、たいした破綻を見せずに79歳まで生き延びることが出来たのだった。では、合理主義によって支えられた荷風の個人主義敵日常とは如何なるものだったのだろうか。
(つづく)