甘口辛口

西村せつ子「歌集」(その1)

2007/3/5(月) 午後 11:19

今朝、「ゆうパック」で、「風に語りて」と題する歌集が送られてきた。この歌集には、福島泰樹による「跋」が付いていて、彼は歌集の作者について次のように説明している。

<西村せつ子が、生まれ育った信州伊那から上京、東京女子大学文理学部に入学したのは、一九七〇年春、高校時代は、地元信州大学農学部の学生たちの指導を受け、学習とビラ配りなどに余念がなかった、という。

・・・大学では史学を専攻。フランス史に興味をもち、一八七一年パリでの民衆蜂起「パリ・コミューン」を研究。その関係で、早大仏文大学院から翻訳業に転じた夫君と知り合い結婚、現在に至っている>

では、この作者と福島泰樹は、どのような関係にあるのだろうか。「跋」の続きを読んでみよう。

<西村せつ子と初めて会ったのは、渋谷の小劇場ジアンージアンであった。一九八〇年代の半ばを過ぎたころであろうか。定例の短歌絶叫コンサートが跳ねて、ステージに散らばした台本を片づけにいった時だった。幼い子供の手を引いた美貌の婦人が、私に声をかけてきたのだ。ハリウッド女優キム・ノバックをほっそりさせたような女だと思った。外は雨が降っていたのだろうか、彼女は持っていた傘を惜しげもなく私にくれるという。なぜ、私は傘をもらわなくてはならないのか。

外へ出て傘を開いて分かった。夜空に花火が上がったのだ。傘の絵柄は、まるでカンデンスキーではないか。子連れの淑女は、私のステージに花束を贈ったのである。以後、結成したばかりの「月光の会」に入会。八八年四月、季刊「月光」創刊に載せた「サーベル」五首が西村せつ子のデビュー作品である>

歌集の作者西村せつ子は、東京女子大に入学する以前、私の勤務していた女子高校の生徒だった。私は週に2時間、彼女のクラスで倫理社会を教えるだけの関係だったが、妙な因縁からその後彼女と手紙のやりとりをするようになったのである。

時代は大学紛争が高校にも飛び火してきて、生徒の間で「教師敵論」が盛んに論じられている頃だった。私の勤務校でも、急進的な生徒たちが相談して、東京の全共闘に呼応して安保反対のデモ行進する計画を練っていた。西村せつ子はこの急進派グループのリーダーだったのである。

彼女がグループのリーダーに押し上げられたのは、理論の面で仲間たちより一歩先んじしていたからでもあったが、容姿の点で水準を抜いていたという面も大きかった。女子高校で特定の生徒が力を持つには、下級生が憧れるような容貌やスタイルを持っていることも必要条件なのである。

細かないきさつは覚えていないけれども、デモ行進の問題をめぐって生徒と教師が「団交」まがいの話し合いをすることになった。かくて、私は放課後の図書館で、数十人の「進歩的な生徒」を相手に議論を応酬することになったのである。本当は、この役目は校長・教頭などの管理職か、生徒会の顧問教師の受け持つ仕事だったが、どうした理由だったか、当時教員組合の役員をしていた私のところにお鉢が回ってきたのだ。

私は、生徒たちがデモ行進をして自分たちの意志を広く訴えるのは国民の基本的な権利だから、頭から押さえつける気はなかった。そのことを説明すると、集まった生徒たちはホッとしたようだった。そして、彼女らの意見に耳を傾けたりしているうちに、自然にデモ行進をするとしても、もう少し様子を見てからにしようと云うことになった。

図書館での話し合いがガス抜きになったらしく、結局、デモ行進は実行されることなく終わった。

生徒と教師の関係というのはおかしなもので、これ以来、私は西村せつ子を含む全共闘系の生徒たちと友達つきあいをするようになったのだ。女子大に入学した西村からは、特にしげしげと手紙が届くようになった。彼女は「恋い多き女」だった。彼女は、恋人を連れて訪ねて来るようになり、私は何時しか西村せつ子の背後から、彼女の愛の遍歴を眺める立場になっていた。

彼女は、このころの愛を求める気持ちを次のように歌っている。

<もどかしくゆきつもどりつ天地の
      息も幽かに春は来るらし>

やがて彼女は、一人の男を愛するようになる。

<アフリカにきみとゆく夢空しくば
       今宵二人でランボー読もう>      
       
だが、恋人に対して、そして友人に対して、彼女の求める気持ちは強すぎたから、西村せつ子は次第に孤立して行くのである。

<友は去り親にそむきて家もなく
        黄昏せまる丘に登れり>
        
(つづく)