机の引き出しを整理していたら、2,3年前に切り抜いて取っておいた新聞記事が何枚か出てきた。そのなかに信濃毎日新聞に掲載された「暗い記憶」と題する読者の生活雑記があったので、ここに全文を転載する。
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十二月、必ずあの暗い記憶が甦ります。それは南京陥落の提灯(ちょうちん)行
列で年が明けた昭和十三(一九三八)年の秋頃、母の弟が戦地から帰り、除隊し
て佐久から東京中野の我が家を訪れたときのことです。
叔父は、あれで兵隊が務まるのか、と言われるほど気の優しい物静かな人でした。その叔父の様子が違うことに気付いて座敷を出た私は、襖(ふすま)越しの叔父の低く重い口調の話の内容に息を呑みました。
叔父が南京攻略戦の後続部隊兵として陥落直後入った南京城内は、戦場を見慣れた眼にも地獄のような凄惨さで、至るところに民衆の死体が転がっていたそうです。そのなかに「少女の陵辱死体が、恥部に、丸太を、突き立てられていた」と叔父は話しました。
私は思わず襖を開け叔父の顔を凝視しました。その眼の、言いようもない暗さ。今もって忘れられない暗さです。叔父はその少女を見たとき、同じ歳かっこうの姪
(めい)の私を思い出し、でもその惨状にも立ち止まらない部隊とともに行軍するほかなかったそうです。
「義兄さん、俺のした戦争は何だったんだろう」。人間ではなく「兵」として行軍せざるを得なかつた切なさを、最も信頼する義兄に打ち明けたくて、叔父は信州から来たのでした。
でも戦勝に沸く国内は四月に国家総動員法が公布され、こんな話を人に漏らすことなど絶対できません。叔父はもちろん父母も私に箝口(かんこう)令を敷き、敗戦後も叔父や父母の口からこの事実が語られることば無いまま、あの世に持って行きました。
その当時十四歳だった私は、二十歳になった敗戦後に初めて、叔父や父母が固く口を閉ざした事件が、昭和十二年十二月、日本軍による南京占領の際の虐殺事件なのだと知りました。私たち日本人は空襲や原爆の戦争被害者であると同席に加害者なのだと悟ったのです。以来、十二月になるたびに叔父のあの言葉が甦ります。
人や国は侵して,侵されてもいけない。どんな戦争も大義名分や正義など無い。今、戦禍のイラクを思うにつけ、あの時代を生きた者の一人として、六十年こだわり続けた重い記憶を語らねはいけないという思いに駆られています。 (長野市・主婦・79歳)
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この投書を切り抜いておいたのは、筆者の宮下いち子さんが私と同年齢だったこともあるけれども、戦争中の日本人が二重原理で生きていたことを実証する記事だと思ったからだ。
戦時下の日本人は、日本のはじめた戦争が「聖戦」であり、日本軍は「天に代わりて不義を討つ」皇軍だと信じていた。その一方で、日本軍が大陸で残虐非道のことをしている事実を帰還兵らの打ち明け話を聞いて、ちゃんと知っていたのである。日本人が、8月15日の敗戦を迎えて、手のひらを返したように平和主義者になったのは、日本軍部の行動を正当化できないと内々感じていたからなのだ。
日本人はアメリカから原爆を落とされ、戦争末期に満州になだれ込んできたソ連兵からも残虐な扱いを受けたが、当の米国人やロシア人は、そのことに良心の呵責を感じているふうには見えない。アジア各地の民衆も、アメリカが日本に原爆を落としたことを積極的に肯定している。
そして、日本人も表立ってアメリカやソ連に抗議することをしていない。それは、日本軍の負の遺産を自覚しているからであり、そうした負い目を通して、我々がいかなる国の兵士も戦争になれば野獣のようになることを身にしみて理解しているからだ。
安倍晋三をはじめとする自民党・民主党の若手議員たちには、このへんの認識がゼロに近い。彼らは戦前の日本社会についても、日本軍についても、表面だけ見て真実の姿を見ていない。戦前の日本は美しかったが、戦後になって堕落したという馬鹿げた話は、戦前の御用学者たちが、日本社会の暗黒面を押し隠すためにでっち上げた「神話」にすぎないのだ。
戦前の日本人は、二重原理で生きていたのに、戦後生まれの議員たちは片面だけの原理でものを見ている。戦後体制は堕落しているから、美しかった戦前に戻ろうなどと考えるのは、キチガイ沙汰というしかない。天国は腐っているから、地獄に戻ろうと言うのと同じである。
安倍首相は、拉致問題に対する強硬姿勢で人気を得て政権を獲得した。その首相が慰安婦問題で戦時中の日本の行動を弁護するような矛盾した発言をするから、世界中のマスコミから叩かれるのだ。彼がこうした錯乱した態度を取るのは、戦前の方がよかったという妄想にとりつかれているからだ。こんなネオナチまがいの妄想を抱き続ける限り、しまいにはアメリカからも見捨てられることになるだろう。