<美貌の皇后>
「今昔物語」には、何となく奇妙な話が一つある。巻20の第7の「染殿の后、天狗のために擾乱せらるる物語」である。
この話を現代風に要約し、少しばかり修正を施して紹介すれば、こんな具合になる。
ヒロインは「染殿の后」と呼ばれた文徳天皇の皇后明子で、彼女は歴代皇后のなかで最も美しかったといわれている。染殿の父は関白太政大臣藤原良房だった。だから、その天性の美貌に加えて門地のたかさもあり、皇后の前では天皇さえ気押されて自由にものがいえないほどだった。
皇后が「物の怪の病」になったのも、このためだと思われる。周囲が腫れ物に触るようにしていたから、彼女はひとりで放恣な夢を描き、それが昂じて今の言葉でいうヒステリーになったのである。染殿は御几帳の奥でもだえ狂い、高声で泣き叫ぶかと思うと、几帳から転げ出て部屋の中を走り回るようになったのだ。
後宮には侍医の当麻ノ鴨継が詰めていたけれども、狂い回る皇后を鎮める力はなかった。そこで大和国金剛山の山頂で修行中の葛木聖人を招請して、修法を行わせることにした。聖人は弟子一人を連れて禁裏にやってくると、ずんずんと奥に進み染殿に入った。そして、夜の更けるのを待って御几帳の前で結跏趺坐の姿勢を取り、銅製の火鉢で香木を燻らせながら、音吐朗々、経文を唱し始めたのだった。
聖人のまわりには、皇后付きの女房や女ノ童が詰めて修法を見守っている。彼女らは、何やら不思議な匂いのする香木の煙を嗅ぎ、朗々たる聖人の経文を聞いているうちに次第に意識が朦朧としてきた。そのときである。聖人が、「喝!」と裂帛の叫びを発したのだ。
「ひいっ」と声を上げて、末座に座っていた女ノ童が立ち上がり、ふらつく足で部屋を出て行った。聖人は背後に控えた弟子に、「追え!」と命じ、飛びだしていった弟子の後から自分も室外に出て行った。女房たちも総立ちになって遣り戸を開け、手燭を掲げて外を見ると、女ノ童は渡り廊下を飛び降りて寝殿の床下に入ろうとしていた。
聖人の弟子も、女ノ童の後を追って床下に入った。それを見定めてから聖人もひらりと地面に飛び降り、床下に入っていった。程へて床下から聖人の「喝!」という裂帛の声が聞こえてきた。女房たちが息を詰めて見守っていると、聖人が女ノ童を抱えるようにして床下から出てきた。女ノ童は正気を取り戻している。その顔つきは、まるで夢から覚めたようだった。
聖人の後から、弟子が年老いた狐を両手に捧げ持って出てきた。女たちの間に動揺が走った。しかし聖人は、何でもないことのように説明する。
「染殿に取り付いていた物の怪というのは、こやつの悪戯でござった。拙僧が追い出してやったので、この女ノ童に乗り移ったのです。もう、御懸念には及ばぬ。離してやりましょう」
聖人は弟子に命じて、気絶している老狐を地面に横たえさせた。そして、しゃがみ込んで暫く経文を誦した後で、鋭く「行け!」と命じた。すると、狐はむっくり起きあがり、ちょっと聖人を振り返ってから、ぱっと走り出して暗闇の中に姿を消した。
この夜から皇后の狂態はぱったりなくなった。喜んだ藤原良房は、聖人になお暫くは娘の様子を見守ってくれるように懇請する。それで葛木聖人は暫くの間宮中にとどまり、毎日、染殿に伺候することになった。
折しも真夏であった。染殿の戸障子はことごとく開け放たれ、室内の女房たちも涼しげな単衣に着替えている。時折、思い出したように寝殿のまわりの木々を抜けて微風が部屋に吹き込んでくる。事件はこのときに起きたのである。
吹き込む風が几帳の帷子を翻した瞬間に、聖人のところから侍女に髪を梳かせている皇后の全身が見えたのだ。聖人が染殿に伺候するようになってから十日ほどになるが、彼は几帳に隔てられてこれまで皇后の姿を見たことがなかった。だが、このとき皇后は単衣を緩やかに着て横座りに座っていたから、薄く汗ばんだ美しい顔と共に、襟の間の豊かな胸乳や裳裾の割れ目からのぞく艶やかな膝頭が鮮烈な映像になって聖人の目に焼き付いて来たのだ。
聖人は、まるで意志をなくしたように立ち上がり、宙を踏むような足取りで御几帳の中に押し入った。そして皇后の髪を梳っていた女官を突き除けて、皇后に抱きついたのである。皇后は恐怖のあまり声も出ない。室内の女たちも同じだった。幸いなことに、この日は侍医の当麻ノ鴨継も部屋に詰めていたのだった。彼は足萎えで独力で行動することができなかったから、背後にいた弟子を叱りつけた、「何をしておる。早くあやつをひっくくれ。遠慮はいらんぞ」
弟子は伊賀ノ鶴丸という長身の若者だった。彼は、聖人にとびかかり背後から羽交いにして皇后から引き離し、相手を組み伏せて膝で背中を押さえつけた。
「何か紐はありませんか」
声をかけられた皇后は、少しためらった後に、含羞の色を目元に浮かべながら単衣の奥から下紐を抜き出して伊賀ノ鶴丸に手渡した。
鶴丸が聖人を後ろ手に縛り上げている間に、急を聞いた舎人らが駆けつけてきて、聖人を獄に連れて行った。これに続く記事を、筑摩書房口語訳「古典日本文学全集」から、引用しよう。
< 獄中の聖人は不気味な沈黙をまもっていたが、やがて天を仰ぎ、泣
く泣く恐ろしい誓いを立てた。
「われたちまち死して鬼となり、この后の世におわしますうちに、
素志を貫ぬいて后に睦びん」
獄吏はこのことを父大臣に申し上げた。大臣も驚き、天皇に奏上し
て、聖人を免し、もとの山に返した。>
聖人は生きているうちに思いを遂げる可能性がないから、死んで鬼になって目的を達しようと考えたのである。今昔物語によれば、金剛山に戻った聖人は絶食して息絶え、死んでたちまち鬼になったとある。
そして、この鬼が白昼、染殿の殿中に現れたのである。
鬼は身の丈八尺ばかり、全身漆を塗ったように真っ黒だった。頭はざんばら髪で目は金椀のようだ。この鬼に金色の目で睨みまわされると、女たちは身動きできなくなった。一般の廷臣の立ち入れない後宮のことだから、女房たちが恐怖で凍り付いてしまえば、鬼は思うままに行動できる。鬼は平然と御几帳の中に入って行った。
鬼の魔力にたぶらかされたのか、皇后は驚きもせずに鬼を迎え入れた。再び、筑摩書房「古典日本文学全集」から引用する。
<后は身じまいをとりつくろい、微笑をたたえた美しい顔を扇でさし隠
しつつ、御帳の内に入って鬼と二人臥させ給うた。女房などがひそか
に聞けば、鬼は、日ごろ逢瀬が得られずに苦しく恋しかったことども
を、綿々とかき口説いている。后は薄笑いをもっでこれに応えておら
れる様子。
しばらくして日暮れのほどに、鬼は御帳より出でていずかたにか去
った。后はいかがなされたかと案じて、さっそく女房たちがかけつけ
てみると、平常といっこうにお変りない。そんなことがあったという
御意識すらないようである。ただ、思いなしか、御眼つきがいささか
怖ろしげになられたばかりだ。
ことのよしを聞こし召された天皇は、あさましく怖ろしいというよりは、今後どうなるのかと、そのことばかり案じて溜息をつかれるのみであった>
(つづく)