<美貌の皇后(改編版その9)>
祝宴の夜、染殿で起きた事件の影響は深刻だった。
これまで鬼が染殿に出没すると聞いても、宮廷人たちは皇后に恋慕した鬼が皇后の顔を見にやって来るだけだとに受け取っていた。しかし、今度は、皇后が天皇・廷臣・女官の目の前で、公然と鬼と交わったのである。これが御所を震撼させる醜聞にならないはずはなかった。
染殿の周辺には前に倍する衛士が動員され、鴨継と鶴丸は夜を徹して室内に詰めることになった。問題の夜に、鶴丸が座をはずしていたことは皆の知るところだったが、用便に行っていたという彼の弁解を疑う者は誰もいなかったのだ。それで、この緊急事態に鶴丸も室内警護の任に当たることになったのである。男子禁制の殿中に出入りすることを許されるのは、医師しかいなかったのだ。
染殿付きの女官たちも、毎夜交代で十人ほどが朝まで室内に詰めていた。親しく皇后に接している女官たちによれば、皇后は鬼と交わったことを全く覚えていないと語っているという。
こうして又一ヶ月あまりが過ぎ、新年になった。染殿のまわりを固める衛士たちも、室内に詰めている女官にも疲労の色が濃くなった頃、またもや鬼が現れたのだ。今度は誰も鬼が室内に侵入して来たことに気づかなかった。深夜になって女官たちがうとうとしている間に、几帳のなかの灯が消え、ふと気がついてみたら男女の交わる気配がしていたのだった。
やがて几帳のなかから前回と同じすすり泣くような悦楽の忍び音が聞こえてくる。だが、灯の消えた几帳の中の様子は分からない。女官たちが息をのんで几帳を見守っているうちに、中の灯明が再び点灯したのだ。重なり合って動いている男女の影が紗の向こうにぼんやり浮かび上がった。
几帳の中の男と女は抱き合ったままだった。灯明皿は支柱に支えられて人の胸の高さにある。どうして灯明が点ったのかと女官たちが疑念を抱いたときに、灯はふっと消えてしまった。だが、それで終わりではなかった。灯は、点いたり消えたり、めまぐるしく点滅を繰り返し始めたのである。そのうちに、ついに灯明皿の灯は数回瞬いたのちに完全に消えてしまった。
灯明の点滅する現象は、次には広間に移って行った。室内には支柱に支えられた灯明皿がいくつも配置されていたが、それらが相次いで消え始めたのだ。すると、消えた灯明皿を再点灯する動きが起きて、皿に灯が点るのである。灯明がついたり消えたりするところは、灯が乱舞しているように見える。けれども、そのうちに二つの力が宙で争っているように見えてきた。室内の灯を消そうとする力と、それを防ごうとする力が、上になり下になりして争っている、そんなふうに思われてきたのだ。
最初、几帳内の灯明皿に灯を点じた力は、程なく灯を消そうとする力によって追い出された。追い出した方は攻勢に転じて、室内の灯を片っ端から消しにかかる。それで防御に回ることになった力は、消された灯明を再点灯するのに忙殺されはじめた── 女官たちには、そんなふうに見えたのだ。
点滅する灯を呆然と見守っていた女官たちは、室内の灯がすべて消え、あたりが真っ暗になったので我にかえった。争いは反転攻勢に転じた側の勝利に終わったのである。気がついたら、いつの間にか几帳のなかもひっそりしている。鬼は姿を消したのだ。
「灯を」
と頭株の女房が配下の女官に声を掛けた。数人の女官が灯明皿に火をつけて回る。あたりが明るくなった。頭株の女房は、鴨継の方に歩み寄って尋ねた。
「鴨継殿、どうなされた」
息も絶え絶えになった鴨継が、弟子の鶴丸の手で支えられていたのである。鶴丸が、近くの女官に舎人を呼んでくれと声を掛ける。いったん、舎人の担架で宿直所に運ばれた鴨継は、急遽、仕立てられた牛車に乗せられて御所をでた。しかし鴨継は、屋敷に戻る途中に、息を引き取ったのだった。
数日後、慌ただしく鴨継の葬儀を済ませて鶴丸が御所に出仕してみると、鴨継は鬼に呪殺されたという噂が飛び交っていた。あの夜、鶴丸が座を離れ、室内を迂回して几帳のなかに忍び込んだことに気づいた女官は一人もいなかったし、鶴丸の不在に気がついた女もまさか彼が几帳の中にいるとは想いもしなかったのである。
当麻ノ鴨継の死後、鶴丸は官を辞して伊賀に戻る積もりでいた。自分が鴨継の跡を襲うなどと全く予想していなかったのである。しかし、彼の留任を求める後宮の声が強かったうえに、典薬頭らによる口頭試問にも合格したので、彼は鴨継の後任にされてしまったのだ。
正式に侍医となり、伊賀ノ鴨也と改名した鶴丸は、祝いの言葉を言上に来た老女の音羽から意外な質問を受けた。
「あの夜、鴨継殿が術を使って几帳の中を明るくした理由をご存じですか?」
「私が勝手に暴走して几帳に入ったことを、罰する為じゃないですか」
「いえ、あなたになり代わるためです」
鴨継は鶴丸の体を通して皇后と交わり、音羽は皇后の体を通して鶴丸と交わるためだったというのである。
鴨継はあのように自由のきかない体だったが、普通の人間と同じ体験をして、常人と変わらぬ快楽を得ようとしていた。彼は鶴丸を弟子にしてから、弟子の行動をつぶさに観察し、鶴丸の言動を心の中で模倣し再体験することで、弟子の感情を奪取しようとしたのである。
つまり、こういうことだった。鴨継は女を抱くことが出来ないから、その方面の快感を味わうことが出来ない。そこで鶴丸に女を抱かせ、そのときの彼の姿勢や表情を心に模写することで、鶴丸の快感を自分のものにしようと思ったのだ。塩辛いものをなめたときの顰めっ面を真似すれば、こちらも塩辛さを体験できるという理屈である。
「相手の仕草や表情を真似すれば、相手の感情をわがものにすることが出来る・・・・そんな馬鹿な話は聞いたことがない」と鶴丸は音羽のいうことに異を唱えた。
「私も最初は、そういって鴨継殿に反対したんです。そしたら、あの人は相手を本当に愛していたら、相手のものが自分のものになると言い張るんですよ。母親は、子供が喜んでいるのを見れば、自分もうれしくなるではないかと」
鴨継にそう説得されて、音羽も実験してみたのである。彼女は明子皇后の乳母としてすべてを犠牲にして生きてきたから、まだ男を知らない。そこで皇后が鶴丸に対してとる態度や表情を心に描き出してみたら、皇后と同じ気持ちになった。鶴丸に抱かれたくなったのである。
「私はあの祝宴の夜、皆さんが凍り付いたように動けなくなっているときに、座をはずして裏に回り、几帳の中を覗いたんですよ。私のつとめは、お方さまを何時でも見守っていることですから。そしたら、お方さまはあなたに抱かれ、声を上げていました。それを見ていたら、鴨継殿の申されるとおり、私も女の喜びを感じたのです」
音羽には鴨継の気持ちがよく分かるというのだ。彼はああいう体だから裏に回って男女の交わる場面を盗み見することなどできない。あの夜、鴨継が几帳のなかの灯明を点したのは、その場面をハッキリと見て鶴丸の感覚を自分の中に取り込み、皇后の体を味わうためだったのだ。
「私には、まだ信じられない」
「相手の感覚をわがものにするには、相手と身も心も一つにならないといけません。私はお方さまと何時も一緒でしたから、鴨継殿に教わった呪文を唱えたら、直ぐにお方さまになり代わることが出来たんです」
音羽は、鴨継の忠実な弟子になっていたのである。
「だが、私と鴨継殿の間にはそんな関係はなかった」
「いえ」と音羽は確信を持って断言した、「鴨継殿はあなたをわが子のように愛しておられた。ご存知なかったのですか。あなたをお方さまに近づけようとしたのも、あなたの気持ちを知っていたからですよ」
そうだったかもしれないと鶴丸は思った。そんなこととは知らなかったから、彼は葛木聖人との生魂争いで衰弱し切っていた鴨継に、灯を点滅させるという争いを挑み、ついに死なせてしまったのである。
「音羽殿、私はこれからどうしたらよいのだろう。お后にどんな態度をとるべきか分からなくなった」
「もちろん、別れていただかなければなりません。お方さまは帝(みかど)のお后ですから」と音羽きっぱり言った。
「やっぱり・・・・・」
「でも」といって音羽にやりと笑った、「そうなると、私も困ります。女の楽しみがなくなりますからね。ですから、あなたは、これからもお方さまの愛人でいて下さい。帝との関係を壊さない範囲で」
それから、音羽は真面目な顔になった。
「お方さまはこれまでの心労を癒すために、有馬の湯に出かけられることになると思います。今年の冬は寒いので、そこできっと風邪をひかれるでしょう。私も風邪を引いて、お方さまの側に臥せることになります。侍医のあなたは、お方さまの治療のため、有馬に来て頂かなくてはなりません。泊まり込みで。よろしいですか」
「はい、謹んで」
と言って、鶴丸はうやうやしく低頭した。
(おわり)