はじめに
インターネットを介して、パソコン通信をしたり、
ブログを書いたり、あるいはホームページを掲載
したりしていると、私などよりはるかに深い知見
を持った人々から意見を寄せられることがある。
私はその都度、それらの意見を自分の関係するボード
に残して来たけれども、今回は「中年アナーキスト」
さんのご意見を保存させてもらうことにした。
これは、私の直近のブログにコメントとして寄せら
れた文章で、すでに読んでいる人も多いだろうけれ
ども、放っておくと消失するおそれがあるので、
取り急ぎ本文欄に採録することにしたのだ。
ほかにも、向坂夏樹さんから畠山被告、麻原被告に
関連した意見が寄せられたので、後段で紹介する。
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<故意的兵役忌避者>
「良心的兵役忌避者」の逆は「故意的兵役忌避者」になると思います。私が思う「故意的兵役忌避者」とは、徴兵制度の抜け穴を利用した者のことだと思うのです。
戦前に特権を有する人間達には平民とは異なり、兵役忌避する道が少しながら有ったようです。その唯一の抜け穴は軍属の主計将校になることだったと、私は理解しています。
それは上層階級に属する人間達だけが合法的に兵役忌避者になれる訳で、主計将校は現場にて兵を率いる指揮官ではなく、後方で兵站について検討する事務屋です。戦場で鉄砲を持って、敵と対峙する事もなければ、敵兵を殺戮する必要もなかったのです。
陸・海軍経理学校の狭き門を通った者を列記すると、長野県小坂財閥の次男坊であった小坂徳三郎、群馬県の富商な材木屋の倅であった中曽根康弘、東急グループ創始者で「強盗慶太」と称された五島慶太の息子、五島昇などの人物達です。
小坂は東大を卒業後、家業の信濃毎日新聞社を継ぐ為に、朝日新聞社に入社した後に陸軍経理学校へ入学したし、中曽根も同じく東大を卒業後、内務官僚(警察官僚)になった後に海軍経理学校へ入っている。
中曽根は近著の『自省録』で、主計将校でありながら自分はインドネシアやフィリピンの戦地へ赴いたと武勇伝のように述べているが、自身が主計将校になった本来の意図については、何も語っていないし、それについては彼は黙したまま、墓場まで持って行くことになるのであろう。
この人達は、戦前戦後日本の支配者階級に属しておりながら、戦前は巧みに兵役を逃れて生き残り、戦後は一貫して宗主国になった米国に擦り寄ることに徹した輩だったと思うのです。
彼らは自己保身やその他の理由により、完全に米国に取り込まれてしまい、米国の意図に沿って動かされる操り人形となって、国を平気で売るようなことをした人々でもあったと言えるのではないのでしょうか?
近年に郵政民営化に取り組んだ小泉純一郎の姿は、二十数年前に「不沈空母」と称して米国に媚び、更に国鉄、電電公社、専売公社を民営化させた中曽根康弘と、全く同じだったのではないでしょうか。
蛇足ですが、中曽根は郵政民営化に反対した実の息子も、選挙で見捨ててしまうような男です。マキャベリが言ったように「政治は悪のなせる所業」ということでしょうか(中年アナーキスト)
<死刑問題──鈴香日記、麻原娘手記に関連して>
おそらく、このままでは今後とも私達が鈴香被告の精神状態を特定する術を手中にすることはないでしょう。しかし、死刑判決を行なわずに、断罪の目的は脇において精神鑑定を施すことによって、それが可能になるかも知れません。そのために犯罪者を生かし続けることは共同体が引き受けるべきコストの範疇に入っているのではないでしょうか。
死刑は社会問題が提起するもう一つの側面、すなわち未来に向けた問題解決のために必要な知識を蓄積する可能性を閉ざしてしまうことにもなり兼ねません。断じて、被告の死刑と共に問題の真相を闇に葬ってはならないのです。
同様に松本(麻原彰晃)被告についても死刑に処するべきではありません。信者達が松本被告の言動を信じ込んでしまったことやあのような行動に駆り立てられた原因の解明を通じて、どうして松本被告のような人間を生んでしまったのか、私達自らが答えを出していく必要があります。
そのためにも、暫し視野から断罪を遠ざけた観点で捉えた情報が重要になります。本来はこれらのシステム開発は行政の責務であるはずなのですが、我が国の為政者達は何時になったらこうした改革を先導するようになるのでしょうか、否、それに値するような当事者能力や当事者意識はもうすでに喪失してしまっているのかも知れません(向坂夏樹)
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死刑囚を処刑してしまったら、後から無罪の証拠が出てきたとき
に取り返しのつかないことになります。
また、死刑判決が下されるような犯罪事件がなぜ起きたか、又、犯人の
心理はどんなものだったかを、長い時間をかけて学問的に研究する
必要があります。その研究資料としても被告には生きていてもらわ
なければなりません。
そして何よりも、死刑はやはり「殺人」です。死刑囚を生かしておく
ために かなりの費用はかかるかもしれない。けれども、向坂さんの
言われるとおり、それは必要な社会的経費として「健常人」が負担すべき
ものなです。
我々が 死刑にならずに生きていられるのは、我々が善人だからではなく、
重罪を犯さなければならないような環境に生まれなかったからだという
意味のことを親鸞は言っています。
先日、撮り溜めておいたビデオを再生させていたら、こんな映画がありました。アメリカの大学教授が死刑反対運動の一環として自ら死刑囚になり、処刑されるという 映画です。彼は同じ大学で、同じ運動をしている女性教授と語らって、次のような計画を立てます。
まず、女性教授は頭からビニールの袋をかぶり、窒息死による自殺をします。他殺に見せかけて、実は自殺を敢行するので、警察はすっかり騙されてしまい、死刑反対論者の教授を犯人と思いこんで逮捕する。そして、裁判の結果、教授は死刑判決を受け、実際に処刑される。処刑された後から、女性教授が自殺するときのビデオが出てきて、教授は冤罪で処刑されたことが明らかになる──
事件は二人の教授が計画したとおりに進行し、社会に衝撃を与えるところで映画は終わっています。アメリでは、死刑がかなりの州で実施されているけれども、こんな映画が作られるほどに反対運動も盛んなのです。