甘口辛口

岸田国士・妻に死なれて(その2)

2008/2/16(土) 午後 1:52

 (岸田国士二人の娘と)

<妻に死なれた岸田国士>

何しろ今まで岸田国士の作品をほとんど読んでいなかったから、彼の全集を読んでも容易に岸田の全体像をつかむことができなかった。それでも私は、彼の長編小説「暖流」「双面神」「由利旗江」「善魔」をはじめ、いくつかの戯曲を読むことは読んだのである。岸田国士のイメージがおぼろげながら浮かんできたのは、これらの作品からではなく、「妻の日記」という短い随筆を読んだからだった。

岸田国士は、私事については語らなかった作家だといわれている。彼は死ぬまで私小説を一つも書いていない。その彼が身辺について語った希な文章が「妻の日記」という随筆なのである。しかし、これも岸田夫人の日記はわずかしか載っていない上に、叙述の大半は若い女性への訓戒にあてられている。大政翼賛会の文化部長という自己の職責を意識して、どうしても本音よりも建前を優先した文章になってしまうのだ。

それでも、文中にはこうした一節がある。

「私はただ、世の常の夫として、「妻」なるものの全貌を、その死とともにはじめて胸中に描き得たことを識り、驚きをもって、彼女の生前の日常を想い浮かべている」

人はよく、大切なものを失ってみて、初めてそれが大事なものであったことを知るという。喪失することによってしか、そのものの価値がわからないという事実が、一番痛切な形で現れるのは妻を失った場合なのだ。

この年になると、妻に死なれてがっくりして、生きる気力をなくしてしまった男たちを数多く見て来ている。普段壮健で、亭主関白で威張り散らしていた男ほど、妻に死なれると参ってしまうのである。そして、妻の後を追うようにして死んでいく。

離婚した夫婦の場合でも、事情は全く同じで、「あんな馬鹿女房と別れてせいせいした」と豪語していたサムライが、離婚して一年たつかたたないうちにぽっくり死んでしまったりする。女房の存在をろくに意識していなかった亭主は、女房に死なれて、やっと相手がベターハーフであり、自分は「より良き半身」に支えられていた「悪しき半身」であったことに気づくのである。

岸田国士は、妻の死後、妻によって埋められていた日常生活の一部が空洞化した事に気づく。その空洞部分にに妻の営為を充当してみて、初めて彼は妻なるものの全貌を把握したのだった。彼はそこから更に、女の生涯がどんなものかを悟るようになる。彼は書いている。

「かうして、妻の日記を手がかりに、私は、一人の女の生涯について考えはじめた」

岸田国士の発見は、それだけにとどまらなかった。彼は娘時代の妻の日記に、死の前兆のような文章があることに気づく。

「何というさびしさだ。・・・・そんなにさびしがっていいものか。いいもわるいもない。さびしいんだからしかたがない」(岸田夫人の若き日の日記)

楽しいことがいっぱいあるはずの娘時代に、岸田の妻は振り払っても振り払っても湧いてくるさびしさを抑えきれず、ついに諦めてそれを受け入れてしまっていた。岸田はそういう妻に、短命の予感があったのではないかと直覚する。人はなんとも名付けようもないさびしさに襲われたとき、自己の死を漠然と予感しているものなのだ。

岸田国士自身も死の二ヶ月ほど前に、自己の死を予感している。彼はその頃、「雪だるまの幻想」というラジオドラマを書いた。これは生者である岸田が、死者の妻と対話する構成になっていて、岸田は死んだ妻にこう話しかけるのだ。

老人――お前は、自分の短命を、ひそかに覚悟していた、と、おれは、あとになって、気がついた。

すると、雪人形に身を変じた妻は、「お別れするのが、ずいぶん辛かったわ」と答える。岸田は妻と話しているうちに、つい、こんな愚痴をこぼしはじめる。「もう生きるということにはあきあきした。しかし、このままでは、お前のそばに行けないだろうな」

これに続く問答は、次のようになっている。

雪人形――もう、ひと息だわ。
老人――それは、わかってゐる。
雪人形――子供たちは、もう大丈夫でせうね。
老人――ああ、大丈夫だとも…‥・。
雪人形――そんなら、早く、いらっしゃい。
老人――どうすれはいいんだ?     
雪人形――あたしの肩におつかまりなさい。
老人――もう眼が見えないよ。
雪人形――しばらくの我慢よ。すぐ、眼の前が明るくなってよ。
老人――思いがけないことだ。ありがたいことだ。どこへでもつれていってくれ。
雪人形――手をはなしちやだめよ。

このラジオドラマは、老人が雪だるまになってこの世から消えるところで終わっている。

岸田国士を知る多くの友人たちは、このドラマに現れた岸田の「弱さ」を見落としていたのではなかろうか。岸田は情に屈しないタフな男として文壇人の支持を受けて大政翼賛会の文化部長になったのだが、彼らが岸田に期待したのは軍部からの圧力を阻止して文学を守る防波堤になってくれることだった。

古山高麗雄の「岸田国士と私」には、この間の事情を物語るエピソードが載っている。

「高見順の『昭和文学盛衰史』に、昭和十五年九月下旬に、河上徹太郎、 械光利一、武田麟太郎、島木健作ら『文学界』系の作家評論家十人ほどの集まりで、河上氏が、
「実はすでにお聞き及びかと思いますが……」
「今度できる『新体制』組織の文化部門の重要な地位に、民間から岸田国士が起用されることになるらしい」
「われわれとしては、ぜひこの岸田国士を支持したいと思う。その支持ということは、文化統制の防波堤になって貰おうということである」
と言ったと書いてある」

だが、岸田国士は人々の期待に応えたとは言い難かった。事情は、大政翼賛会そのものにも共通していた。

大政翼賛会は軍部の暴走を阻止するために、近衛文麿のアピールにこたえて非軍部の諸勢力が大同団結したものだった。近衛は大政翼賛会をバックに軍部と闘うことを期待されたにもかかわらず軍部と妥協し、あろうことか東条英機に首相の座を渡して政界を去ってしまうのだ。そのため、大政翼賛会は軍部を押さえるどころの話ではなかった。軍部を支える支援組織になり、軍部もろとも太平洋戦争へと雪崩れ込むことになる。

岸田が信頼する友人たちは、彼の大政翼賛会入りには反対していたが、岸田は「他の人には勤まるまいから」とか、「僕がやらなきゃ、もっと悪くなるからね」と語って、火中の栗を拾う覚悟で文化部長に就任するのである。

岸田は、日本人が日本人に向かって日本を礼賛するという夜郎自大的な風潮を苦々しく思っていた。たとえば、膝の曲がった日本人の体格の方が、西洋人より美しく優れているというような論をなすものが多かった。

「日本人の生活様式がより自然の理法に適ってゐ、例へぼ穀物を主食物とし、膝を折って坐るといふやうなくせが、筋肉の布置を最も円満にし、関節の機能を十分に発達させ、西洋人にはみられない安定な均整美を作り出してゐるうへに、戦争に強い原因ともなつてゐる」

そこで文化部長になった彼は、真の愛国心、真の日本文化とは何かということを説き始める。在任中の二年間、彼は文学作品を一本も書くことなく、講演のために全国各地を飛び回り、疲労困憊してへとへとになるのである。

(つづく)