甘口辛口

番組司会者たち

2008/3/9(日) 午後 10:06
<番組司会者たち>

情報番組の司会者については、、以前にこのブログで書いたことがある。古館伊知郎と福沢朗の二人を、「しゃべり屋」系司会者と位置づけ少しばかり苦言を呈したのだ。二人を「しゃべり屋」というのは適切ではないかもしれない。だが天性の能弁家であるこの二人に対しては、こう呼ぶしか言いようがないのである。

私は二人が、「しゃべくり」をしながら感情を大げさに誇張してみせるところが気になっていたのである。感情抑制型のNHKアナウンサーとくらべると、この点がひどく目立つのだ。

「二人は顔型といい、体型といい、実によく似ているのだが、私が彼らを<兄弟のように似ている>と思ったのは、そうしたことよりも二人が感情表現を誇張して俗受けを狙うところが似ているからだ。知事の談合関与、官僚の天下りなどを報道するときに、彼らはいかにも嘆かわしいという顔になり、語気を強めて怒りの感情を表現してみせるのだ。

それがイジメ問題やそれに基づく自殺を報道するとなると、一転して何オクターブか声を落とし、目を潤ませて悲痛な表情になる。とにかく、思い入れ過剰、演出オーバーなのである。あまり派手な感情表現を見せつけられると、視聴者はかえって白々しい気持ちになる」

前回は、まず、こんな調子で書き始め、なぜ二人は感情を誇張しなければならないのか、その理由について考察を試みている。

「二人はしゃべりの専門家であり、特殊技能の所有者だから、立て板に水のようにしゃべる。本当に感情の豊かな人間は、口をきくときに、ためらったり、言いよどんだり、黙り込んだりするから、立て板に水という話し方にはならない。

・・・・・しゃべりの専門家は、自己中心的なのである。だから、いったん口を開けばたちまち自己陶酔に陥り、一方的にしゃべりまくることになる。流れの速い川が浅いように、ぺらぺらしゃべる人間の内面はあまり深くない。しゃべりの専門家は、その人間的なマイナス面を逆手にとることで職業的な成功を収めているのだ。

・・・・・感情表現を誇張し、オーバーアクションを続ければ、視聴者に歓迎されると思いこむところに彼らの人間理解の浅さがある。彼らの思い入れ過剰な司会を喜ぶ視聴者も中にはいるかもしれない。だが、<過ぎたるは及ばざるがごとし>なのだ。視聴者の多くは、二人が力めば力むほど、そっぽを向きたくなる」

これを書いた頃の私は、古館・福沢をイコールで結んで等置していた。「しゃべり屋」には、自我感情があるだけで人間的な感情はない。だから、二人とも人間らしい感情を偽装しなければならず、だからどうしても表現がオーバーになってしまうと思っていたのである。

しかし同じ地点から出発した古館・福沢だったが、今やその間の距離は、急速に開きつつある。

「報道ステーション」に拠る古館伊知郎の成長はめざましく、今では脇に座ってコメンテーター役をつとめている朝日新聞解説委員も彼には一目置くようになっている。彼の経済・外交などに関する知識は、素人の域を脱して専門家のレベルに近づいているのだ。古館が大学で何を専攻にしていたか知らないけれども、久米宏の跡を継いで番組を司会するようになってから、恐らく日々の研鑽を怠らなかったのである。

こうして「実力」がついてくると、もはや臭い演技に頼る必要はなくなる。古館は政局批判などを行う際、むしろ感情を押さえながら語っている。前任の久米宏時代には、この番組は自民党筋から目の敵にされ、非難の嵐にさらされていた。世上一般の評価も毀誉褒貶が相半ばする状態にあった。だから、苛立った久米が番組の中でヒステリックになることも多かったのだが、古館の時代になってから「報道ステーション」に対する悪声をほとんど聞かないようになっている。

古館伊知郎が着々と評価を高めて行くのに反して、「ピンポン」の福沢朗は旧態依然どころか、前にも増して臭い演技に頼るようになった。番組の中でレポーターがちょっと珍しい話を披露すると、「ほお」とか、「へえ」とか大げさに驚いて目を剥いてみせる。面白いニュースが飛び出すと、「わっはは」「わっはは」とわざとらしく哄笑する。

相手が幼稚園児や小学生ならいいのである。しかし視聴者は頑是無い子供ではないから、スタジオで独りで浮かれている彼を眺めて、段々憂鬱になってくるのだ。司会者は、視聴者を無理に面白がらせる必要はないのである。彼に必要なのは、独りになったとき、そのよく動く口を固く封印して、座禅でもして沈黙に徹してみることではあるまいか。

わが国の情報番組司会者で目立つのは、「俳優」系の司会者である。放送局が俳優を司会者に選ぶのは、固くなりがちな情報番組に柔らかさを持たせるためだろう。俳優出身の司会者には、古くは、「アフターヌーン・ショウ」の川崎敬二があり、現在では、「スクランブル」の大和田獏と「パックイン・ジャーナル」の愛川欽也がいる。「パックイン・ジャーナル」は、通信衛星利用のCS「朝日ニュースター」で放映しているため、一般の馴染みは薄いけれども、非常に面白い報道番組なのだ。

「パックイン・ジャーナル」のいいところは、4,5人のコメンテーターが歯に衣着せぬ態度で時事問題を解説するところにある。たとえば、最近の番組では、石原都知事の「石原銀行」に対して経済学者の山口義行を始め、出席者の全員が厳しい批判を浴びせているのである。

「石原銀行」は、資金難で苦労している中小企業者の票を取り込むために、石原慎太郎が都民の税金を原資に設立した銀行である。これは看板はとにかく、実は彼が選挙対策のために案出した政治的装置だったのである。それが失敗して三月期決算で1000億円の損失を出す見込みになると、彼は責任を全部他人に押しつけて、銀行を立ち直らせるために更に400億円が必要だと言い出したのだ。しかも彼は前々から、二年後を見てくれとか、追加出資はしないと豪語していたのである。

とにかく、男っぽさを売り物にしている石原慎太郎の女々しさは、あわれをそそるほどだ。

彼は子分を引き連れて国の内外を大名旅行をして都民の税金を浪費するだけでなく、市中銀行を相手に訴訟をして敗北し、200億円を支出しなければならなくなり、今度は石原銀行の失敗で1000億円の損失を出している。

石原の常套手段は、こうした失敗の責任を他人になすりつけ、居丈高に自分が任命した「責任者」を罵倒することなのである。温厚な山口義行も、石原流の手口を、「人間としての品性を疑わせる」とまでいっている。これまで責任転嫁を繰り返して何とか生き延びてきた石原慎太郎だが、今度ばかりは逃れられない証拠を突きつけられて白を切るわけには行かなくなったというのが出席者一同の見解だった。

こういう番組だから、「パックイン・ジャーナル」は10年間続く人気番組になった。だが、ひとつだけ辟易するのは、司会の愛川欽也が場所柄をわきまえずに手前味噌の自慢話をしたり、自分の監督した映画の宣伝をすることなのだ。これが番組の人気を鼻にかけたら行動だとしたら、これも当人の「品性を疑わせる」事例になる。戒心しなければならない。

このほか、情報番組の司会者には、「一匹狼」系の田原総一朗と小倉智昭がいる。彼らは政権に対して厳しい批判をしているように見せながら、営業政策上、権力者と決定的に対立することを避けている。それと番組に顔を出しているコメンテーターの面々が、司会者と対立することを避けて司会者の意見に同調しがちな点も気になる。彼らは知らず知らずのうちに司会者を独裁者に仕立て上げているのだ。

今のTVに望まれているのは、すぐれた司会者が出現して情報番組を魅力あるものにしてくれることなのだ。何時までもバラエティー番組全盛では困るのである。