<皇太子と同妃のパーソナリティー>
このところ月刊「文藝春秋」はしきりに皇室関係の特集を組むのだが、事柄の性質上、なかなか問題の核心に切り込めないでいる。今月号の文藝春秋も、「天皇家に何が起きている」という特集を組んでいるけれども、やはり隔靴掻痒の感を免れない内容になった。
特集の柱になっているのは、皇室問題に詳しい六人の「識者」による座談会であり、これを読んでいると何故特集記事が問題の核心に迫り得ないのか、その理由が判明する。出席者の多くが、天皇に近い宮内庁筋から情報を得ているからなのだ。
宮内庁の役人には、天皇に近侍するものもあれば、皇太子に仕えるものもある。前者のグループから情報を仕入れてくれば、当然、記事の内容は天皇の立場を代弁するものになり、皇太子には酷な記事になってしまう。これに加えて、皇太子が、「雅子妃の人格を否定するような動きがある」と発言して宮内庁関係者の反感を買っているという事情が重なるから、一層皇太子へのバッシングが激しくなるのだ。
しかし今回の特集記事によって、皇太子と同妃のパーソナリティーが明らかになってきたのはいいことだった。
この座談会では、天皇寄りの発言をする出席者から、皇太子の言葉に対する苦言が何度も持ち出されている。昭和天皇も、今の天皇も一つ一つの言葉を吟味しながら慎重に発言して来たのに、皇太子の言葉は軽すぎるというのである。
「皇太子の言葉はその通りだし、嘘はないと思うのですが、言葉が平板すぎて引っかかるところがどこにもありません」
「(質問されても)非常にフラットに受け流しているようにも思えます」
「気になるのは皇太子の話し方なんです。言葉はなめらかに出てくるのですが、トーンが均一で無機質な印象を与える」
皇太子は、記者や国民に接するときに笑顔を絶やさず、応対にも人をそらさない温かさがある。座談会の出席者が皇太子の語り方を問題にするのも、皇太子があまりにもそつなく役柄をこなしていることへの反発があるように思われるのだ。
宮廷記者のなかにも、皇太子の言葉の軽さを指摘するものがあった。これも皇太子のそつのなさへの反感から来ているように見える。国民の皇族に対する目は厳しく、一億総小姑といってもいいほどなのである。
だが、座談会では、皇太子に関連した次のような話も紹介されていた。
高橋「皇太子はジョギングにはまって
いて、月に百キロも走る、と会見で言っ
ていましたね。健脚なのは結構なことだ
けれども、百キロというのは尋常ではな
い。孤独なのでしょうか」
斎藤「走っている間は、自分だけの時間
が確保できる。それは皇太子にとって
大事な時間かもしれませんね。ジョギン
グ、登山、スキーと、皇太子の得意なス
ポーツには一人で行なうものが多いのも
興味深い」
皇太子がジョギングなど孤独なスポーツを愛しているという事実は、如才なく役をこなしている軽薄才子という彼への評価を改めさせるものを含んでいる。
皇太子は生まれた瞬間から、次期天皇として手厚く育てられてきた。両親を始めまわりの大人がすべて彼を次期天皇として接するので、皇太子も自分をそのようなものとして受け入れ、皇太子という役柄を自然に演じるようになったのである。
だが、彼も戦後の生まれであり、新時代の洗礼を受けている。そして思春期にイギリスの大学に留学して、西欧の個人主義とその生活様式を身をもって学んできている。彼は、知ったのである。本当の喜びは、一国の君主として国民に敬愛されるところにあるのではなく、もっとささやかな私生活の中にあること、そして人の守るべきモラルも帝王学というような形式的なものの中にではなく、もっと日常的で卑近な生活場面のなかに存在することを。
人は他者に迷惑をかけなければ、何でも好きなことをする権利を与えられている。人と人が交わる喜びは、対等な人間同士の間にめばえる友情の中にあり、恋愛も結婚もこの友愛を基盤にしなければ失敗する──皇太子は、こうした人間生活の実相を学んだのちにイギリスから帰国したのだった。
しかし帰国した皇太子を迎えた天皇・皇后をはじめ宮内庁の役人たちは、旧態依然たる生き方を彼に要求する。皇太子は、あえて周囲と争うことを避け、再び幼い頃から身に付けた皇太子としての役柄を演じることになった。かくて、失意の皇太子は、侍従たちから離れて一人になることを求めるようになるのである。
彼は多分、外国に移住した人間がその国の住民に調子を合わせて生きるような気持ちになったのかもしれない。としたら、皇太子の言葉が軽すぎるとか、滑らかすぎて無機的な感じがするという周囲の批評は的を射ているかもしれないのである。皇太子は本心語らないから、どうしてもその言葉は上滑りしたものになってしまうのである。
まわりの者たちが皇太子といくら話をしても会話が噛み合わないと感じるのは、皇太子が本心を隠して型通りの物言いをするからなのだ。天皇が皇太子に怒りを感じているとしたら、この点についてだろう。羽毛田宮内庁長官も、皇太子の参内を促すために何度も話し合いを重ねたが、何時までたっても話は噛み合わなかった。
だが、相手に苛立たしさを感じさせながら、皇太子は相手よりもっと深い孤独感にとらわれていたのだ。彼は、小人国に漂着したガリバーの孤独を感じていたかもしれなかった。
孤独といえば、皇太子妃も同じ感情にとらわれていた。
友納尚子は、「雅子妃 悲運と中傷の渦の中で」と題するレポートの中に、こう書いている。
「雅子妃は中学生の頃から、『人のためになりたい』『社会に貢献したい』という理由で外交官を目指されてきた。絶え間ない努力をされハーバード大時代も図書館で夜遅くまで勉強する日本女性として有名だった」
雅子妃は外務省に入ってからも、机上の空論ではなく、現場に飛び込んで働きたいと友人に語っている。彼女はそういう仕事を一生続ける心算だったのである。だが、皇太子の度重なる求婚を受けて外務省を辞め、皇太子妃になった。
皇太子が結婚の相手として雅子妃を選んだのは、彼女の豊かな人間性を予感したからだろう。皇太子の妃選びは難航し、候補にあげられた女性のすべてから断られたが、もう一押しすれば何とかなりそうなグレーゾーンの女性が何人か残っていた。雅子妃も、そのグレーゾーンの中の一人だったのである。
皇太子は最初自分の気持ちを誰にも告げなかったが、侍従に問いつめられて意中の候補は雅子妃だと打ち明けたと言われる。
雅子妃が使命感に燃えて宮中に入ってみたら、皇族の生活は徹頭徹尾空虚だったのだ。「国民統合の象徴」といっても、皇族の日常は、すでに段取りが決まっている行事に格好だけ参加して、お手振りをしたり笑顔を振り撒いたりすることだけだった。
それよりも彼女にとって堪えがたかったのは古色蒼然たる宮中祭祀だった。近代的な教養を積んだ彼女は、神事に参加していると内心アレルギー反応に似た発作に襲われるのである。皇太子は、「雅子にとっては、公務に復帰するより、神事に参加することの方に抵抗があるようだ」と語っている。
皇太子と同妃は、皇室を近代化するという目標で、志を同じくする同士になった。近代化路線というのが誤解を招くとしたら、二人が目指したのは皇室の「人間化路線」であった。
皇室を人間化するためには、まず皇太子妃の処遇から改善しなければならない。
宮中に参内して天皇に謁見することに畏怖を感じたのは雅子妃だけではなかった。皇太子妃だった頃の美智子皇后も、参内の日になると体調が狂い、風邪を口実に欠席したりした。昭和天皇は立腹し、「そんなにイヤなら来るに及ばず」と美智子妃に言い渡したという。
皇太子も雅子妃も、皇族として生きる前に、まず、人間として生きたいと考えている。皇太子と同妃がバッシングの嵐に負けず、皇室の人間化路線を実現して行けば、国民の多くは喝采を送るにちがいない。