(上図は広津和郎、下図は広津桃子)
<読み残した本>
インターネットを介して「広津和郎全集」を購入した際、ついでに二冊の本を注文した。松原新一が書いた広津和郎の評伝(「怠惰の逆説・広津和郎の人生と文学」)と、娘の広津桃子が著した父の思い出の記(「父広津和郎」)である。
松原新一の本で印象に残ったのは、問題を抱えた家族の場合、そのしわ寄せは家族の誰か一人の所に偏ってやってくるものだという一節だった。通常、そのしわ寄せが来るのは、長女などの娘の場合が多いけれども、広津家では他でもない広津和郎にしわ寄せが来たというのだ。
松原の本は、全体の8割ほど読み進んだところで、俗用に追われて読むのを中断してしまった。広津桃子の書いた本も、興味を感じながら同じ理由で読むのを中断している。
広津桃子は、「忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通していく」という父の散文精神について書きながら、同時に家族しか知らない和郎の意外な側面を描いていた。
<時によっては、俊敏とか、鋭敏とかの言葉が、そのままあてはまりそうな、冴えをみせ る父の頭脳に驚くこともあるが、一方、日常生活では、実にうかつなところがある父で ある。いつも、自分の周囲を散らかしているので、年中さがしものをしていなければな らず、又そのさがしものが、きわめて下手なのである。>
広津和郎は、武者小路実篤全集を刊行して失敗したあと、金策で得た金を和服の着流しの懐に入れていて落としてしまったり、銀行からおろした金をタクシーの中に忘れてきたりする。
娘は、「怠け者」の癖に凝り性という父の矛盾した性格についても、様々なエピソードを紹介している。「いま忙しくて・・・・」などと言いながら布団の中で寝ている半面、興味のあることにぶつかると、急に起きあがって二日も三日も徹夜する。こういう父について桃子は愛情を込めて、しかし淡々と紹介しているのである。
──先日、私は松原新一の本を取り出して、読み残していた部分を全部読んだ。すると、第十章(「敗戦直後の停滞──桃子の厳しい目」)で、思いも寄らない文章を見つけた。桃子が父の生き方を、「実に浅い表面だけの生活」と非難していたのだ。
桃子にとって、敗戦直後の食糧難時代に、父が鶏肉などの料理を探し求めて市中を「ほっつき歩き」、それで疲れたからといって奈良や長野に出かけるのが我慢ならなかった。桃子は、昭和二十一年頃、ノートに鉛筆で次のような感想を書き記している。父が五十五才、娘が二十八才の時だった。
<自分のよりどころとするところがぐらぐらとなり、何処にこれを置いてよいのか、わからぬ。ただかつての生活の味を少しでも味はってみたいと、ただそれのみを一つに過去のすがたを追ってゐる一人の中年すぎの男。
なんとも淋しい男。あのすがたで私は、はっきりわかった。父の踏んできた道は絶対に正しいものではなかった。大地に足を置いた生活ではなかった。実に浅い表面丈の生活だった。
あの内藤とか云ふばかの様な男と五十いくつの父とが、互に、やれ、つかれたから奈良へゆくの長野へゆくのと話してゐるすがたは、今の私にとってはとにかく不可解なすがただ。>
この感想を書いた頃の桃子は、敗戦後、一転して民主主義を謳歌するようになった日本国民に怒りを感じていた。
彼女は戦争中、日本の「聖戦」を疑わない軍国乙女だった。日本女子大を卒業して学校教師になっていた彼女は、勤労動員で生徒を引率して工場に赴いた際も、一心不乱に働いた。何にもない癖に、あるような顔をしたり、もっともらしいことをしゃべったりする学校教師よりも、黙って機械に向かって働いている職工たちを見ていると純一な気持ちになれた。彼女は日本女子商業の教師時代に、ノートにこう書いている。
<私は、教師と云ふ職業が身にしみて厭になってきた。
商業学校の生徒の持つ、あの厭なかんじ。一体どうしたらよいのか。(中略)例へ、子供であらうとも人を監督する立場にあると云ふのは、何といふ厭なことだらう。私はもう、つくづく厭になった。>
こういうピリピリした桃子を、父親の広津はある種の懸念を抱いて眺めていた。彼の「戦時日記」には、こんな文字が見える。
<桃子ひどく痩せ衰えたり。
近頃は生徒をつれて工場に出かけて行くので、それで疲れるならんか。この戦争の意味を知らざるために本気で工場に通い居るようなり。学校にいるより工場に行く方気持よしなど云えり。>
戦争に対する父と娘の態度には、大きな落差があった。この頃、サイパン玉砕の噂を東京新聞の知り合いの記者から聞かされた広津和郎は「戦時日記」に次のように書きつけた。
「暗然となる。非戦闘員まで全部死なせるという日本的な考え方は、思えば思う程やり切れない憂鬱なものである。生と死とに対する日本流の考え方、いつか根本より批判されるべき時が釆なければならない。」
そして広津は、日本の指導者層に対して痛憤の言葉を記すのである。
「此処まで引っばって釆て尚国民を責め、自ら反省せざる当局者の厚顔無恥。国民の前に額ずいて詫びよ。そしてやり直せ。」
昭和21年、桃子が手帳に父を批判する厳しい言葉を書き連ねたのは、戦時下における父娘の断絶がなおも続いていたことを物語っている。だが、桃子が父を批判するのは、それだけが理由ではなかった。
桃子と兄の賢樹(けんじゅ)は、父と離別状態にある母の生んだ子供だった。
広津和郎は、若き日に下宿屋の娘と関係して結婚し、二人の子供の父になったが、汚れた赤ん坊のオムツを縁側に放り出しておくようなだらしない妻を嫌って別居し、子供たちを妻のもとに残したまま別の女と暮らしていた。兄の賢樹は父を慕って、幼い頃から土曜・日曜は広津の家で暮らしていたが、桃子は生みの母親への同情もあって、女学校(現在の中学校)に進むまで父の家を訪ねたことがなかった。
今度、桃子の書いた「父広津和郎」を読んだら、こんな挿話が載っていた。
女学校2年の学年末、兄と一緒に父の家に出かけた桃子は、偶然客間で父と二人だけになった。彼女は父に甘えたい気持ちでいっぱいになって、テストの準備のため持参していた英語のリーダーを、「ここ教えて」と父の前に差し出した。
「これが分からないとは、おかしいな。これぐらい分からないようじゃあ、ちょっと困るな」
父の言葉を耳にして、桃子は冷水を浴びせられたような気がした。甘えてすがりつこうとしたら、相手から突き放されたような気がしたのだ。彼女はリーダーをひったくると部屋を飛び出した。
「桃子!」
驚いた父があとを追ってきそうな気配を感じながら、彼女は玄関を出て、門と往来の間の石段に腰を下ろした。突如として突き上げてきた怒りと悲しみを自分でも処理できず、「このまま母の所へ帰ろうか」と思っていると、玄関の戸が開いて、父の声がした。
「中へお入り」
頑なにその場を動かないでいると、父は兄の応援を頼んだらしかった。
「桃ちゃん、早くおいでよ」
(つづく)