(殉死の日の乃木夫妻)
<「精神家」乃木希典の惨劇(その3)>
乃木司令部による絶望的な旅順攻略戦を打ち切らせ、瞬く間に旅順を陥落させたのは児玉源太郎だった。満州軍総参謀長だった児玉は、現地に乗り込んで乃木司令部の指揮権を奪い、自ら陣頭指揮して旅順要塞を落としたのだ。
児玉源太郎の経歴を見ると、彼は何度となく乃木が失策した後をカバーする仕事をしている。最初は西南戦争で軍旗を敵に奪われて動揺した乃木を落ち着かせる仕事だった。次は、日清戦争後に台湾総督になった乃木が台湾統治失敗の責任を取って辞職したとき、その後を引き継いで台湾総督になり島の治安を回復する仕事だった。そして、今度は旅順攻略の作戦を転換させ乃木の失敗の尻ぬぐいをする仕事だったのである。
児玉は乃木希典の無能を誰よりも知りながら、乃木の美点も承知していた。乃木には軍人の才能が全くなかった。乃木は旅順戦の後、奉天会戦に参加したが、ここでも大きな失敗をしている。だが、軍人としての才能がゼロに近い乃木ほど、軍人らしい男はいなかったのも事実だった。乃木は戦場では惨憺たる結果しか残せなかった。けれども、旅順戦の後に敵将ステッセルに示した態度などは誰にも真似の出来ないものだった。
司馬は、乃木がスッテセルと水師営で会見した場面を次のように書いている。
「乃木は降将ステッセル以下
に帯剣をゆるし、またアメリカ人映画技師がこの模様を逐
一映画に撮ろうとしてその許可方を懇望してきたが、乃木
はその副官をして慇懃に断わらしめた。
敵将にとってあと
あとまで恥が残るような写真をとらせることは日本の武士
道がゆるさない、というものであり、このことばは外国特
派員のすべてを感動させた(「殉死」)」
また、「日本の百年(筑摩書房)」の著者は、乃木がアメリカからやってきた老写真師をいたわって相手の宿舎に果物の篭を届けた挿話を記したあとで、乃木の性格をこう説明している。
「乃木のなかにある悲劇的なストイシズムは、激情的な人
情愛と結びついて、一種の謎めいた印象を与えることがあ
った。冷血と素朴な人情との不思議な結合がその人がらで
あった」
戦争が終わって凱旋した乃木は、第三軍司令官として明治天皇に拝謁して報告を行った。
「そのあと、自分の戦闘経過を記述した復命書にも、
『旅順ノ攻
城ニハ半歳ノ長日月ヲ要シ、多大ノ犠牲ヲ供シ、奉天附近
ノ会戦ニハ攻撃力ノ欠乏ニ因り退路遮断ノ任務ヲ全クスル
ニ至ラズ。又敵騎大集団ノ我左側背ニ行動スルニ当り、コ
レヲ撃推スルノ好機ヲ獲ザリシハ、臣ガ終生ノ遺憾ニシテ
恐懼措ク能ハザル所ナリ』
と書いている。自分の屈辱をこのように明文して奏上す
る勇気と醇気は、おそらく乃木以外のどの軍人にもないで
あろう。この復命書を児玉が私(ひそか)に読んだとき、
『これが乃木だ』
と、その畏敬する友人のために讃美した。児玉にとって
乃木ほど無能で手のかかる朋輩はなく、ときにはそのあま
りな無能さのゆえに殺したいはどに腹だたしかったが、し
かし軍事技術以外の場面になってしまえば児玉は乃木のよ
うなまねはできない自分を知っていた(「殉死」)」
乃木には確かに人間としての美点が少なくなかった。司馬遼太郎は、乃木が自分を常に悲壮美の世界に置き、自らに酔う精神の演技者だったといっている。だが、彼が見え透いた自己劇化を繰り返したのは、その性格の中に根深い劣等感と女性的なナルシシズムが絡み合う形で混在していたからではないかと思われる。
司馬は、乃木が殉死する前に近所の写真師を呼んで写真を撮らせていることを弁護するためか、彼は昔から写真を撮らせることが好きだったと強調している。が、彼が新聞記者に写真を撮らせるだけでなく、自分でも写真師を呼んで写真をとらせていたのは、自己愛の欲求と無関係ではなかった。
大体、日清・日露の戦争に参加した将軍のうちで、乃木だけが生前から聖将だの軍神だのと喧伝されること自体がおかしいのである。姉崎嘲風も、「御大葬の当日に自殺するがごとき、何等か芝居気染みたり」と指摘しているという。古武士的だったといわれる乃木の行動には、ウケ狙いのスタンドプレーと思われるものが多い。「御馳走する」と予告して客を呼んでおいて、出されたものは蕎麦だけだったというような話が目につきすぎるのである。
劇的なことの好きなナルシストが演じる最後にして最大の演技は、自殺にほかならない。
三島由紀夫は、空襲警報が鳴ると真っ先に防空壕に逃げ込むほど臆病だったが、切腹自殺をしている。彼が敢えて切腹という壮絶な死に方を選んだのは、生来の臆病を上回るほどナルシシズムが強かったからだ。生命よりも「名を惜しむ」気持ちの方が勝っていたのである。
三島の場合と違って、乃木には死を望む切実な理由があった。明治世代の人々は乃木殉死の必然性を理解し、その点に共感したから彼の死に対して惜しみない敬意を払った。が、大正世代の若者は乃木の自殺をウケ狙いのスタンドプレートしか解しなかった。そして乃木希典の妻静子も、大正世代に近い目で殉死を見ていたと思われるのである。
乃木が殉死する少し前、乃木邸に家人や親類の者が集まって雑談していたことがある。妻の静子は、皆の集まっていることに勇気を得て前々から気にしていた問題を持ち出した。夫と二人だけの時には切り出せなかった話題である。
「跡目のことですけど、天子様さえ御定命のことはどうにもなりません。あなたにもしものことが、私が難渋します」
「べつに、こまりはすまい」と乃木はいった、「もし困ると思うなら、お前もわしと一緒に死ねばよかろう」
「いやでございます」と静子はハッキリといった、「わたくしはこれからせいぜい長生きをして、芝居を見たり、おいしいものを食べたりして、楽しく生きたいと思っているのでございますもの」
静子がこれだけのことを言ってのけたのは、前述のように親戚の者たちが同席していたからだった。結婚生活34年の間、彼女には楽しいことが何一つなかった。頼りにしていた二人の息子にも死なれて、最早、先のよろこびもない。夫と死別したら、まず人生を楽しみたいというのが彼女の正直な気持ちだったのである。
──いよいよ、御大葬の日がやってきた。
乃木は前夜に予約しておいた近所の写真師がくると、「今日の写真は自然な格好がいいだろう」といって新聞を読むポーズをとった。しかし服は陸軍大将の礼装で、胸には勲章を並べた。
静子はまだ夫の決意を知らなかったから、乃木が御大葬に参列するものと思っていた。その点を確かめると、夫は、「行かぬ」という。夕刻になって彼女が二階の乃木の部屋の戸を開けようとしたら、鍵がかかっていた。乃木が室内から、書生や女中を御大葬の拝観に出かけさせるように命じた。
書生と女中を外に出して静子が二階に戻ると、鍵がはずしてある。乃木は軍服姿で端座していた。かたわらに軍刀が置いてある。窓の下の小机に、「遺言状」と墨書した封筒が乗っている。
「察しての通りだ」と乃木はいった、「午後八時に御霊柩が宮城を出る。号砲が鳴る。そのときに自分は自決する」
午後八時までには15分しかなかった。乃木が葡萄酒を求めたので、静子は階下の台所に行って、そこに来ていた姉の馬場サダ子と姉の孫英子と言葉を交わし、二階に戻った。乃木は葡萄酒を静子に注いでやって別れの盃を交わした。──分かっているのはこのへんまでである。
乃木と静子は話しているうちに、急に静子も死ぬことになったらしかった。それまでは、乃木も妻を道ずれにするつもりはなかったから、遺言状の宛名に静子の名前もあり、妻に言い残す言葉もちゃんと添えられていたのである。
階下にいた姉の耳に、不意に静子の叫ぶ声が聞こえてきた。
「今夜だけは」
姉は緊張して息を詰めた。そのあと、意味の聞き取れない疳のこもった声が二、三続いた。少しの間があり、二階から重い石を畳に落としたような音が聞こえてきた。姉は階段を駆け上り、鍵穴から乃木の名を呼んで必死に叫んだ。彼女は妹が乃木に折檻されていると思ったのである。
「静子に罪があるなら、私が幾重にもお詫びします」
室内から、乃木の返事が聞こえてきたが、何と言っているのか意味は聞き取れなかった。静子は恐らく夫と一緒に死ぬ積もりになったものの、女の身で色々始末しておきたいものがあったに違いない。それで今夜だけはと頼んだのだが、乃木が叱りつけて即座に自死を決行させたのだろう。静子は短刀で三度自ら胸を刺したけれども、死にきれなかった。次は司馬の推測である。
「(刺し傷は)浅かった。希典が手伝わざるをえなかっ
たであろう。状況を想像すれば希典は畳の上に、短刀をコ
ブシをもって逆に植え、それへ静子の体をかぶせ、切先を
左胸部にあてて力をくわえた。これが致命傷になった。刃
は心臓右室をつらぬき、しかも背の骨にあたって短刀の切
先が欠けていた(「殉死」)」。