<才女の行く末・曾野綾子(その2)>
曾野綾子は、父が箱根のホテルのマネジャーをしていたため母親と二人だけで暮らしていた。母娘は一体となって生きていて、最初に曾野の作品を読むのも母親、作品を批評するのも母親だった。そこへ、まるで入り婿のような形で、曾野と結婚した三浦が入り込んできたのである。三浦は、「結婚した当時、曾野は22才の学生だったから、そうせざるを得なかった」と弁解している。本来三浦家を嗣ぐべき彼が、実父母を家に残して妻の家で暮らすのはいかにもおかしな話だったのである。
この不自然な家族関係は、夫妻の双方に禍根を残すことになる。三浦は実の親を捨てたという罪悪感に苦しむことになるし、曾野は母を取るか夫を取るかで悩むことになるのだ。曾野は結局、母を捨てることを選んだ。その間の事情を、三浦は次のように説明している。
<だから彼女は母親を超克するという道
をえらんで、ウツ状態を脱したようで
す。つまり、ウツの原因として母親を選
ぶのがもっとも簡単だった。母親は娘に
どんなに扱われても我慢してくれる。そ
れも母性愛の一種ですから。しだいに、
彼女は母親に守られている娘から、母親
を庇護する側に意識が逆転していきまし
た。そして文学的にも、母の批評という
くびきを逃れて書けるようになった。>
三浦の手記によると、曾野は母を題材にした作品を書くことで、母親の支配から抜け出ることに成功したらしかった。
曾野綾子の作品が食い足らない理由は、彼女が通俗性の強いフィクションを多く書いているからだった。だが、彼女が母との葛藤を描いた私小説を発表しているとしたら、それを読めば彼女の素顔を知ることが出来るかもしれない。
曾野の作品目録を調べてみると、それらしい小説を見つけることが出来た。「木枯しの庭」という長編小説の広告に、次のような文章が載っていたのだ。
「子にとって親とは一体何なのか? 人はなぜ愛しながら憎まなければならないのか? 親と子の関係を極限まで追求した注目の長編」
私は前回のブログを書いたあとで、この本を読めば「才女の行く末・曾野綾子」の続きを書くことが出来るだろうと見当をつけたのだ。それで、インターネット古書店に「木枯らしの庭」を注文した。
本が届いたので読んでみたら、私の予想は完全に外れていた。「木枯らしの庭」は例の通り曾野式の通俗小説だったのである。内容は広告にあったように親子の関係を取り上げた長編小説だった。が、母親との関係に悩む主人公は、女流作家ではなくて、40才を過ぎた公文という息子で、キリスト教系の大学の教授だったのだ。
アテがはずれたけれども、読んでみたところなかなか面白くできている小説だった。大学教授公文は好ましい女性と次々に知り合い、中には男女の関係になった女性もいるのだが、息子と二人だけの暮らしに固執する母親のことを考えると、どうしても結婚に踏み切れない。
母は他人の不幸を見聞きするのが好きだった。そうすれば、それと引き比べてわが身の幸福を実感できるからだった。他家の不幸を知ったときの母の口癖はこうだった。
「本当に、お気の毒にね。・・・・・
その点、うちはあなたと私がこうやって二人で暮してる限
り、本当に安定してるみたいねえ。あんまり不運なことも
起きないし、考えてみたらここ十何年って、うちは不幸な
目に会ったことがないのね」
公文自身も、「ますらお派出夫」のように甲斐甲斐しく母の世話をしながら過ごす生活に半ば満足していた。それはそれで、居心地がよかったのである。だから、愛する女との結婚を諦めて独身を続けていたのだが、最後になって彼は母との一見快適な生活が、実は荒涼たる「木枯らしの庭」のようなものだったことに気がつくのだ。
<この荒れた庭は、昔から母と公文のものであった。「二
人だけ」以外の誰もが、ここに立ち入ったことはなかった。
そこは寒く、いつも木枯しが吹いてはいたが、そこは二人
だけの世界であった。
二人は、他に、どのような庭を期待したらよかったとい
うのだろう。二人はその木枯しの庭以外のものを知らなか
った。良くも悪くも、それが二人の確固たる現実であった。
そこには憎しみが、枯葉の音になって常に舞っていた。し
かも、憎しみには、「愛」などと違って、はるかに強く、
確実に人の心を犯すものがあった。>
この幕切れの場面などは、いかにも手慣れた感じなのだが、曾野が通俗作家から容易に脱出できないのは、この長編で「罪」の問題を取り上げながら、それを突き詰めて考えることが出来ず、結局、問題をうやむやのうちに終わらせているからだった。
公文は、人にはいえない罪の意識に苦しんでいた。彼は、後輩の助教授千治松がアメリカに留学するに際し、妻と二人の子供を連れて行くけれども、老母を一人だけ日本に残して行くことに怒りを感じていた。そして、そういう男は罰せらるべきだと考えていた。
公文が時間をつぶすために川沿いの道に自動車を止めて週刊誌を読んでいると、目の前の砂利山のそばで男の子が二人で遊んでいた。公文は男の子のうちの一人が千治松助教授の息子ではないかと思ったが、以前に一度しか会ったことがなかったので自信がなかった。その子が助教授の息子であるかどうかは別にして、公文は子供たちに砂利山に登らないように注意した方がいいと思った。そんなことをすれば、砂利山が崩れて子供が生き埋めになることを知っていたからだ。
しかし公文は、何もしないでその場を去り、その後、助教授の子供が行方不明になったことを知ってからも、砂利山の件を告げないでいた。曾野綾子は、沈黙を守る公文の内面を仔細に描きながら、そして人間の罪について問題提起をしておきながら、彼女自身の回答を出すことをしないでいるのである。神父になった旧友に、「カトリックでは、罪をどう定義しているんだ?」と問い、「罪だと思ったものが罪なんだ」という回答を得たことを記し、「すると、悪いと思わないで殺せば、人殺ししても罪にならないこともあるんだな」と反問して、相手から、「理論的にはそうだ」という答えを引き出しておきながら、それ以上に進むことが出来ないでいるのである。
曾野綾子が、この問題について奇妙なことを書いているので、その全文を引用してみる。
<・・・・・・公文は、一つ一つではなかったが、自分が、
あの千治松の息子を砂利置場に放置して、声をかけなかっ
た背後にある、自分の腐敗した心理の堆積を、ありありと
思い出していた。それは復讐だったのだろう。誰に対し
て?一応は千治松に対してである。
しかし、千治松だけ
ではないようにも、公文は思っていた。公文は彼の他に、
自分を痛めつけた一団の人々の影を見ていた。それは決し
て特殊な状況ではないということも知っていた。誰もが、
そのような、自分の運命と心理に対する「殺し屋」的な存
在を持っているのが普通なのだ。しかし、あの時、自分は、
最も手近なやり方で、復讐を果そうとしたのだ。>
この文章をゆっくり読んでみると、曾野綾子が被害妄想に取り付かれていることが判明する。公文は年老いた母を日本に残して渡米しようとしている助教授に対して罰を加えるべきだと思った。曾野にいわせれば、その公文の怒りの背後には、すべての人々に対する公文の怨念が隠れているというのである。作者としての曾野は、公文が隙あれば彼を攻撃しようとする「殺し屋」のような人間に取り囲まれているから、万人に対する復讐心を抱くようになったと説明している。そして彼女は、公文が万人に対する敵意の個別的な現れとして助教授への処罰欲を燃やしていると説明する。
これは公文のことではなく、曾野自身のことではあるまいか。
曾野綾子のエッセーに共通しているのは、弱者や敗者に甘い顔を見せてはならない、彼らは直ぐつけ上がるからという大衆蔑視の姿勢だった。そして、それは、奇しくも三浦朱門の基本的な態度でもあった。三浦は教育課程審議会の委員長として「ゆとり教育」を推進していたが、その根拠になったのは被支配層にはほどほどの教育を施しておけば十分だという治者の論理だった。彼の発言は妻の曾野並に過激で、「サブページ2」によれば、雑誌「現代思想」には三浦の次のような言葉が載っているという。
(「ゆとり教育」によって学力低下にならないかとの質問に対して)「そんなことは最初から分かっている。むしろ学力を低下させるためにやっているんだ」
「今まで落ちこぼれのために限りある予算とか教員を手間暇かけすぎて、エリートが育たなかった」
「ゆとり教育というのはただできない奴をほったらかしにして、できる奴だけ育てるエリート教育なんだけど、そういうふうにいうと今の世の中抵抗が多いから、ただ回りくどく言っただけだ」
「エリートは100人に1人でいい。非才、無才はただ実直な精神だけを養ってくれればいいんだ。」
──三浦夫妻による大衆蔑視の発言を見て行くと、作家として一流という評価を得られなかった男女の悔しさのようなものが感じられるのである。