<臨死体験は、何を語るか(2)>
「臨死体験」とは、死に瀕した人間が日常の生活ではあり得ないような神秘的な体験をすることを意味している。前回の例でいえば、**さんが死にかけた状態で三途の川を渡ることなしに引き返してきたというような体験である。
この体験には、いくつかのパターンがあって、その一つが「三途の川」体験なのである。これがスイス人の場合だと、生と死を分かつ境界線が川ではなくて峠の頂になり、峠を越えて向こう側に出れば死ぬところだったが、こちら側に戻ってきたので助かったという体験になるのだ。
体外離脱という体験もある。瀕死の床にある重病人の「魂」が、体を抜け出て天井からベットに寝ている自分やそれを取り囲む家族や医者を見下ろすというものだ。このほか、「パノラマ回顧」といって自分の一生を細部まで回顧する体験もあれば、暗いトンネルを抜けたら、光り輝く白色の世界に出ていたというまるで川端康成の「雪国」を思わせるような体験もある。日本人に多いのは、意識を失ったと思ったら一面の花畑に出ていたという体験らしい。
立花隆は、こういう臨死体験を300例集めて、つぶさに検討を加えている。著書「臨死体験」を読んでいて面白いのは、本の各所に引用されているこの実例の部分であり、おかげで「臨死体験」上巻を退屈しないで読み終えることが出来る。
さて、これらの臨死体験をどう解釈するかについては、二つの見方があるのである。
キュブラー・ロスという女性医師は、肉体から抜け出た魂が死後の世界をかいま見るときに臨死体験が生まれると説いている。つまり臨死体験で見た世界は死後の世界であり、人間がそうした体験をすること自体が魂の不滅、死後の永遠の生を証拠立てているとするのである。
<われわれの肉体は、じつは繭にすぎず、人間存在の外殻にすぎない・・・・われわれの内なる本当の自己、すなわち「蝶」は不死であり、不滅である>
ネス・リングという研究者も、プラトンの説を引用してこう言う。
<プラトンは、われわれ人間は真実在たる魂が肉体に閉じこめられた状態にあるといいました。死とともに、魂は肉体の牢獄から解き放たれ、真実在の世界であるイデア界に入っていく。死んで肉体から解放されたときに、われわれは初めて真の存在形態に立ちかえる>
もう一つの見方は現実主義者のもので、臨死体験における映像など、脳細胞が生み出す幻影にすぎないと一刀両断で切り捨てる。死の間際に神経細胞が、その弱った状態で特異的な活動をするときに出現するのが臨死体験であり、本当の死がやってきて神経細胞が死に果てれば、それらの体験、それらの映像はたちまち消え失せてしまう。瀕死の病人が、死後の世界をかいま見るなどというのは妄想でしかない。
そして現実主義者は、暗いトンネルを出て、明るい世界に出るというイメージは、胎児が産道を抜けてこの世に生まれてくるときの記憶がよみがえったものだと主張する。「魂の体外離脱」なる現象も、感覚器官の活動が停止し、身体情報が脳に届かなくなったときに出現する錯覚だと説明する。身体感覚がなくなれば、自意識はよりどころを失って自分を宙に浮遊していると感じてしまうのである。
この二つの見方のどちらを信じるかという点で、アメリカ人と日本人の間には大きな開きがある。米国の世論調査機関であるギャラップによると、死後の世界を信じているアメリカ人は67%あり、医者の32%、科学者の16%も死後における魂の生存を信じているという。
これに対して、日本の統計数理研究所が同じ時期に調査したところによると、「あの世」とか、「来世」を信じている日本人は12%しかいない。こういう日米の国民性の違いは、当然、臨死体験の評価にも反映する。日本人は、おおむね臨死体験に対して懐疑的なのである。
臨死体験を擁護する論者の弱点は、その体験の出現するのが脳内酸素の減少などで脳の働きの弱ったときに限られているという点にある。死に瀕して脳細胞の活動が半ば停止したときに浮かぶイメージなど、信じるに足りないと現実主義者にいわれれば、返す言葉がなくなるのだ。
だが、「臨死体験」を読むと、現実主義者からのこうした批判に対して、なかなかうまい反論を展開する研究者もいる。例のネス・リングである。少し長くなるけれども、あとで又取り上げるので、彼の説明をそっくりここに紹介する。
<人が死ぬとき、一連の生物科学的現象が次々に起こります。脳の機能は低下し、失われていきます。肉体のあらゆるシステムが機能を失い、解体していきます。そのこと自体は疑いようがありません。私がいいたいのは、肉体がそのような状態におちいったときにはじめて見えてくる別の現実があるのではないかということです。
人間が健康な状態にあるときの日常的な目覚めた意識があると、それにおおい隠されていて見えない現実が、そのような状況下ではじめて見えてくるということがあるのではないかということです。
それはちょうど夜になると空に星が光っているのが見えてくるようなものです。星は昼間も出ているのに、昼間は見えません。太陽の強烈な光が星の微弱なまたたき
を圧倒して見えなくしてしまうからです。しかし、太陽が沈み、他を圧倒する光がなくなると、全天に光り輝く無数の星が見えてきます。そのときはじめて我々に、宇宙の広がりが見えてきます。
昼間、太陽の光の下で我々に見えているのは、このちっぽけな地球という惑星のごく限られた一画だけです。昼間、我々は自分には何でも見えていると思っていますが、宇宙的スケールでいえば、実はほとんど何も見ていないのです。広大無辺な宇笛の広がりが見えてくるのは、太陽が沈んだ夜になってからです。
それと同様に、日常的な意識が目覚めた状態にあるときには、我々の認識は強烈な感覚入力に圧倒されて、本当は見えるはずの内的宇宙の広がりが見えていないので
す。肉体的死の接近とともに、それまで太陽のように輝いていた日常的な感覚能力、認識能力が姿をかくし、それによってはじめて真の内的宇宙が見えてくるのです
>
人は正気の時、ありのままの世界を見ていると信じている。しかし、実際は、われわれの見ている世界は、さまざまの現世的欲求や社会的通念に裏打ちされた世界であって、真の世界とはほど遠いものなのだ。
だから衰弱して死に瀕し、現世的欲求も社会的通念も力を弱めてしまえば、それらによって覆い隠されていた本当の現実が見えてくる。こうしたことは、十分にありうるのである。
もっと端的にいえば、臨死体験には人間の意識を拡張させる働きがあるのだ。
死に瀕した人間のすべてが臨死体験によって意識を拡張しているかといえば、そんなことはない。学者らの調査によると、死線をさまよった後に生き返った人間の40%ほどが臨死体験をしている。そして、この40パーセントの人間が、それ以後、はっきりした人間的変化を見せるのである。
私は、臨死体験者の見た世界は幻影にすぎないし、死後の世界などありえないと思っている。だが、体験者が意識を拡張した結果、新しい精神世界に足を踏み入れるだろうことは信じられると考えている。次の問題は、その新しい精神世界とはどのようなものかということである。
(つづく)